1.幼少期
私(荒木)は、昭和57年(1982年)、三重県上野市(現・伊賀市)に生まれました。両親は両方が公務員という一見、堅そうな家。5歳上の姉がいたこともあって、おとなしく(おとなしくさせられた(?))幼少期を過ごしていた模様。その影響があってか、何があっても簡単に弱音を吐かない忍耐力がこの頃から養われることになりました。母曰く、「小さい時から何かと鋭く、ミルクを飲んでいるときにも何やら味に不満を持っていそうだった。」とか(笑)。
幼稚園のころには、親に教えてもらった関係で将棋のルールを覚え、幼稚園に将棋盤を持って行って他の子どもにルールを教えていました。ルールを覚える早さでいえば羽生善治と同じくらいのタイミングでした。そのまま将棋の道を邁進していれば、将棋界で名を馳せていたのかも知れません。
うっすらとしたとですが、ひらがなをようやく書けるようになったころに、なぜか一生懸命、自分の名前をアルファベットで書いていた(シールのようなもので貼っていた)記憶があります。これもそのままの感覚で生きていたらもう少し国際感覚のある人になっていたのかも知れません(笑)。
しかし、今振り返ってみれば、「他人と同じではない何かユニークなことをやりたい」という思いが人一倍強く、ある意味でクリエイティビティのある子どもだったのかも知れません。
2.少年期
小学生時代は、内向的で、自分の言いたいこともあまりうまく表現できない少年でした。しかし、その割には行動力だけはあったようで、学校の部活動とは全く関係なく、野球チームを作って試合を企画したり、家でもそれまでやっていなかったバーベキューを企画したりしていました。この頃から「何かやってみたい精神」というものはあったのかも知れません。
また、将棋を(ある程度)本格的に始めたのも小学生の高学年ころからで、公民館に集まって大人たちと(同世代は全くいません。)朝から晩まで将棋を指していました。この頃は、「分煙」など全く気にしないような時代で、もくもくとタバコの煙が蔓延する中でひたすら盤上に集中していた記憶があります。集中力は相当なものがあったようで、めきめきと実力を上げ、中学に上がる頃には地域でトップを争う実力を持つようになっていました。「考える力」というのはこの頃にものすごく養われたように思います。
一方で、小学生の頃に何故か魚へんの漢字に興味を持つようになり、辞書に載っている魚へんの漢字を全て覚えていた記憶があります。当時から「探求心」や「調べる力」はあったということなのでしょう。また、ある意味で「収集癖」や「マニア体質」というのもあったのかも知れません。この辺りは今思うと弁護士業としては必須の能力ですね。
中学に上がってからは、野球部に入り、将棋との二足の草鞋を履くようになりました。野球のほうはというと、とんと才能が有りませんでしたが(涙)、結果的にはこのころにそれなりに厳しく運動していたことで今に至る体力が付いたように思います。また、2年生の後半からはなぜか(内向的な性格にもかかわらず)キャプテンを務めることになり、「リーダーシップ」を取ることの原型を掴むことができたように思います。将棋のほうでは市の大会で優勝するなど、才能の片鱗を見せていました。
勉強のほうは、特に頑張ったということもなく、塾に通っていたわけでもありませんでしたが、そこそこにできていたため、学年で30番程度の中には入っていました(と、いっても田舎の公立中学校なのでまるで凄いものではありません。)。
そんなわけでそこそこの成績があったため、一応は進学校に進むことになりました。進学校というと聞こえはいいかも知れませんが、一応の入試はあるにしても倍率はほぼ1.0倍。願書を出してそれなりに答案を書けばまず受かる程度の高校でした。高校に入っても特に勉強をするインセンティブはなく、野球もやっていなかったため、帰宅部として自宅で将棋の研究をしたり、テレビゲーム(マリオカートとダビスタとぷよぷよ(笑))をひたすらやるという生活でした。なぜか自宅では麻雀が許されていたため(今思うとなかなかの家庭ですね。)、賭けていないという前提のもと、ちょくちょく友人らと麻雀をやっていたような記憶もあります(学校でもやっていて、何度か摘発されたこともあります(汗)。)。将棋に関していうと、それなりに頑張っており、1度ではありますが、高校生の全国大会にも出場し、大人を交えたアマチュアの公式戦で県大会ベスト4に進出したこともありました。当時はそこまで大してことではないと思っていましたが、このように記録に残るというのは「成功体験」としていまでも刻まれている体験になっています。
高2までまるで受験勉強なるものはやったことがなかったのですが、高3のGW明け辺りに受験を意識するようになって、今考えると恐ろしい話ですが、「さすがに東大京大は難しいんだろうけど、この一橋とかいうマニアックなところなら何とかなるんやない?」と思って第一志望の大学に設定しました。当時、本当に一橋がどんな大学か1ミリも知りませんでしたし、偏差値のシステムというものも十分に理解していませんでした。ただ単純に「上から3つ目に書いてある大学」ということで選ぶという暴挙に出たわけです(笑)。本当にふざけた大学選びですね…。
しかし、一旦、受験勉強となれば、それまでに自然に養ってきた「集中力」や将棋で得た「成功体験」が力を発揮しました。高3の夏前から始めた受験勉強でしたが、朝から晩までやるという感じではなく、朝は早くから(5時ころから)やっていたものの、昼頃まで学校に行き(受験期間中は半日授業でした。)、帰ってきたら一息ついて夕方までゲーム、夕方から夕食までちょっと勉強、夕食を食べてバラエティー番組を見てから、ちょっと英単語を覚える、程度のことしかやっていませんでした。この程度のことしかやっていなかったら普通の親なら気が気でないのかも知れませんが、荒木家の放置ぶりはものすごく(笑)、誰もこの生活スタイルに口を挟みませんでした(祖母は少しは心配していたようですが。)。
しかし、予想に反して運よく成績は順調に伸び、秋口には名前を知っているだけの(笑)一橋大学の合格ラインの成績に届くようになりました。三重県の高校でしたので、一橋大学志望者など他にいるはずもなく、完全に孤独な闘いでしたが、そうであるがゆえに「一人の独自路線でもブレずに頑張れる」という能力も身に付けられたように思います。
最初は経済学部を志望していたはずでしたが、センター試験終了後になぜか思い立ち、法学部志望に転向することになりました。「数学が苦手だから」と担任の数学の先生の前でぬけぬけと言ったような気もしますが、本当のところはよくわかりません。当時は弁護士を意識することもなかったのですが、受験予備校が出していた職業ガイドブックのようなものに「弁護士というのはハンコを押していたら3000万円はもらえる」といったような記事が書かれていたため(絶対に妄想で補っていますが、それに近い認識はありました(笑)。)、弁護士に意識が向くようになったのかも知れません(あ、「守銭奴!」とか「金の亡者!」とか言わないでください(笑)。)。3000万円という数字に惹かれたというよりも、当時は職業というものに対して何の知識もなかったため、単純な数字の比較ぐらいしか判断要素がなかったのでしょう。実に何も考えていなかったことが思い起されます(汗)。
そんなこんなんでようやく、法学部→(うっすらと)弁護士というキャリアが見えてきたのがこの時期でした。
3.大学生時代
そんな無茶苦茶な受験の経緯をたどったわけですが、無事に入学することが許され、一橋大学法学部に入ることになりました。
しかし、18年間、わずか人口6万の三重の片田舎で育ち、ろくすっぽ外に出たこともなかったわけですので、(多摩とはいえ)東京に出てきた荒木少年は戸惑うばかり。とはいえ、あこがれの東京(多摩ですが)に出てきたので、茶髪にして大学デビューを図ろうなどとし始めたわけですが、コミュニケーション能力のなさを遺憾なく発揮してすぐに挫折(笑)。何となくの流れで体育会弓道部に入部することになりました。
この弓道部なのですが、それまで弓道をやったこともなければ弓を触ったことすらなく、「オリター」と呼ばれていた先輩がいらっしゃらなければまず興味すら持たなかったでしょう。当時は全く意識していませんでしたが、これも「ご縁」であり、この頃から実はご縁によって人生が動かされてきたのでしょう。弓道部では、上下関係の礼儀を叩き込んで頂き、酒の飲み方(吐き方も(笑))を教えて頂き、精神力の重要さを学びました。3年生の時には「主務」という渉外を担当する幹部となり、部全体のリーダーシップを図るとともに外部との折衝のマネジメントを務めました。これも今思えば、中学生時代の野球部キャプテンと並んで、今の各事業体のマネジメントの礎になった体験だと思います。
そんなわけで3年生の秋までは弓道に明け暮れていた大学生時代だったわけなのですが、司法試験のほうはというと、この部活が終わるまでの間は完全に棚上げ状態。私(荒木)のころは、ちょうどロースクールができる時期であったため、法学部というと「猫も杓子も司法試験」状態でそのブームに乗っていたわけで、何となく「何とか司法試験は通るだろう」感を持っており、変な自信を持っていました。考えてみればこれが大きなボタンの掛け違いで、その後何年も苦労を重ねることになりました。
4.大学院生時代前後
ということで司法試験合格を目指すようになったわけですが、これがどうにも簡単ではなかったわけで。
司法試験制度は、私(荒木)が大学生の頃に大きく変わり、従来のように誰でも受けられる試験(旧司法試験)から、法科大学院を修了しないと受けられない試験(新司法試験)に移行しました。旧司法試験は合格率が低く、時代にもよりますが3%前後で推移していた時代が続いていました。それに対して、新司法試験は当初の発表では70%くらいの合格率を予定しているとされていました。これを真に受けて、大学3年生のころまで勉強を先送りしていた私(荒木)でしたが、大学受験の経験から、「追い込めば何とかなる」と大いなる勘違いをしていました。
当然、法科大学院もそのステップに過ぎないと思っていたため、軽く考えていたのですが、いざ勉強を始めてみると、学ぶべきことの分量の多さに呆然。周囲の司法試験志望者は、大学1年生の頃から勉強をしているわけですので、相当な差があったわけです。4年生の秋に法科大学院の入試があるわけですが、その前哨戦というべき適性試験というものと既修者試験というものの勉強が間に合わず、ほぼ撃沈状態。ついでにTOEICの点数も出さなければならなかったわけですが(今思うとどこに英語が必要だったのだろうかと疑問ではありますが…。)、こも700点にも満たない体たらく(というかいまだに700点取ったことありません(汗)。)。特に既修者試験の成績がとんでもないことなっていたため(確か50点満点で17点とかそれくらい)、既修者試験の成績の提出が必須の一橋への出願を断念しました。そんなわけで秋の本番にも間に合うことなく、敢え無く東大、慶応、中央ともに惨敗。これまで試験と名の付くものにほとんど落ちたことがなかったため、当時は相当に応えた記憶があります。
そんなわけでやむなく浪人生を開始したわけですが、当時の記憶があまりありません。ただ、毎日、家→スタバ→図書館→ドトール→図書館→家のようなルーティーンをひたすら繰り返していただけの生活を送っていたような気がします(喫茶店は気分転換に場所を変えて勉強していたものです。エクセルシオールのこともありました。)。大体、8時ころに家を出て22時過ぎに家に帰ってくるまでの時間の大半を勉強に充てていたので、1日平均で12時間から13時間くらいは勉強していたのではないでしょうか。当然、遊びに出かけることもなく、飲みに行くこともなく、ただひたすらに淡々と勉強を続けており、まさしく「修行生活」といってもいいような毎日でした。
あまり記憶がない、というのは楽しいこともなかったという意味もありますが、苦しいというのもあまり感じていなかったという意味もあります。この1年間で本当に「努力する」ということの意味を学んだように思います。すなわち、「シャカリキになる」とか「猛烈に頑張る」というのが本当の努力ではなく、「粛々と」、「淡々と」、「平常運転で」やることをやるのが成果につながる努力であるということを身をもって体験しました。
そんな甲斐あって、東大、慶応、早稲田(補欠繰上り)に合格し、東大に進学することになりました(ちなみに中央はまた落ちました。何でだったんだろう。)。
法科大学院に入学してからは、大学の授業とは異なり、出席が必須の授業ばかりで、かつ授業もクラス単位で行われることが多く、さながら高校時代に戻ったような感覚がありました。授業はソクラテスメソッドというものが取り入れられているような、そうでもないようなものが多く、とりあえず授業中に当てられるので気が抜けません。多少飲みに行ったりするようなことはありましたが、この時代も家→自習室→授業→図書館→家みたいな生活を続けていました。どうでもいい話なのですが、自習室で財布なんかを持ち歩くのにポシェットをぶら下げていたので、いつしか「ポシェットの人」と呼ばれていたそうです(面と向かった言われたことはありませんが。)。
この時代、ありがたかったのは一緒に勉強をしてくれる仲間ができたことでした。大学時代にもそれに近いような仲間はいましたが、当時は私(荒木)の勉強の進度が遅かったため(汗)、対等な立場として教え合うようなことはできませんでしたが、この大学院時代には一緒の場所で勉強して、わからないことを検討し合うような関係ができたことは大変ありがたかったです(まぁ、自習室の個室のようなところを占拠してアホなことを言い合ってた記憶もありますが(笑)。)。今思うとまさしく「衆人環視」の状況が生まれており、継続的な努力を続けるための条件を備えていたように思います。これが1人で勉強をしていたのではどこかで心が折れたり、サボり始めていたりしたことでしょう。
そんなわけで大学院時代2年間を粛々と過ごし、それなりの成績をおさめたので、優を半分以上取るともらえる「成績優秀賞」なるものを頂きました。
外部の方から見ると、法科大学院というと法律の勉強をするわけで、その勉強をしていると司法試験も合格できるように思われますが、実態はそんなことはありません。法科大学院では、司法試験とは若干(というかかなり)切り離されたような勉強をすることになっていたため、司法試験の勉強自体は自学自習をするよりありませんでした。このため、法科大学院の授業の予習復習に加えて司法試験対策を並行してやっていたわけです。
法科大学院の卒業が3月で、司法試験が5月だったため、実質的に司法試験の勉強に集中していたのは2か月程度のものだったと思いますが、この頃もやはり1日12時間から13時間程度は勉強していたのではなかったでしょうか。新司法試験は、私(荒木)が受けたのが第3期ということで過去問が少なく、出題の内容もかなりの長文の記述を求める問題であったため、なかなか自分の順位などがつかめず、対策のしにくい試験でした。試験直前に彼女にフラれたりなどありましたが(涙)、試験までには概ね順調な仕上がりになってきていました。
ところが、試験3日目の前日、寒気を覚えたため病院へ。薬を出してもらってゆっくり休めばいいかと思っていたところ、当日、暑くてたまらず目が覚め、熱を測ってみると何と39度超えの高熱(!)。慌てて近くの救急病院に電話しました。私(荒木)の予想では、病院に行って点滴でもしてくれるのだろうと思っていたところ、電話口のお医者さんは、何と「薬をもらっているのだったら決められた量の倍の量を飲んでみて下さい。」と(!!)。本当に大丈夫かなぁ、と思いつつ倍の量を飲んで寝てみると、2時間後くらいには37度台まで熱が低下。何とかかんとか試験を受験することができました。それでもさすがに39度の時には諦めムードも入っており、親に電話して「駄目だったらもう1年だけ受験をやらせてくれ。」と頼み込みました。
そんなことがありましたが、司法試験は無事に合格。3日目の民事系の得点はなぜか全科目の中で一番できていたというおまけ付きでした(笑)。
合格できたことはもちろん結果として良かったのですが、それ以上にそれまで数年間にわたってプライベートを全て勉強にささげてきたことが報われた体験というのは、非常に大きな財産になっているものといえます。弁護士というと「頭がいい」とか「知識がある」という点を評価されがちですが、誰しも相当な量の勉強をしており、それを結果に結びつけられたという成功体験を持っていることももっと評価されていいのではないかと思います。ついでに私(荒木)の場合には39度の熱を出しても心折れなかったところも評価して頂けないかと厚かましいことを思っています(笑)。
5.司法修習生時代
さて、そんなわけで司法試験に合格したわけなのですが、それですぐに弁護士になれるわけではありません。司法修習生というものを1年間やって、最後の試験(通称:二回試験)に合格しなければなりません。当時の司法修習というのは、実務修習といって全国各地の裁判所に派遣されて10か月間を過ごし、最後の2か月を埼玉にある司法研修所というところで過ごすことになっていました。
話を少し端折りましたが、司法試験の合格発表前に就職活動をしており、その年の7月には森・濱田松本法律事務所に内定をもらっており、司法修習が終わったらそこに就職することが決まっていました。その関係でいえば、司法修習生になってから就職活動をするような人であれば、就職希望地に是非とも配属されたいところですが、私(荒木)のように内定をもらっている人にとっては、必ずしも地域にこだわることがなく、むしろ、行ったことのないところに(ある意味で旅行気分で)行ってみたいというのが本音のところでしょう。その関係で、毎年、東京や大阪といった就職先として人気の都市部を除いては、札幌、福岡、沖縄といった観光で行ってみたいような地域が人気となっています。
かく言う私(荒木)も「折角だから二度と住むことのないところに行こう。」と考えており、かつ競馬が好きであったため(!)、札幌を第一希望で選択することとしました。すると、あっさりと第一希望が通り、札幌に行くこととなりました。考えてみるとこれもご縁だったのでしょうね。
そして、札幌に移住することとなり、司法修習が開始されました。司法修習は11月の下旬からでしたので、寒いのはもちろんのことでしたが、住んでみるとこれが「住めば都」状態。寒さにもすぐに馴染んでしまいました。
札幌に来てから覚えたのがスキー。ほぼ全く滑れない状態からでしたが、週2ペースでスキー場に通ったところ、シーズンが終わるころにはそれなりのレベルまで到達することができました。5時に修習が終わってからナイターに行くなど、当時はずいぶんと体力があったことが思い起されます。
あと、春になったころ、ロードバイクを購入してサイクリングも始めました。週末は道内各地を旅しながらサイクリングと優雅な生活をしていたものです。
そして覚えてしまったのがすすきのの楽しさ(笑)。考えてみれば、それまで約5年にわたって勉強しかしておらず(これ、本当なんです。)、収入もなかった状態から、勉強をしなくてよくなり(まぁ司法修習における実務の勉強はありますが)、国家公務員としての扱いを受け、それなりの給料を頂けることになったわけですので、それもやむなしというところもありました。特に、私(荒木)が配属された班のメンバーのはっちゃけっぷりが激しく、だいぶハメを外した思い出があります(というかそんな思いでばかりです(汗)。)。しかし、このような体験をしたことは実は非常に貴重なことであったと評価しています。それというのも、
そんなわけでろくに勉強をしない1年間を過ごしていたおかげで、札幌を出て司法研修所に入ったときにはなかなかヤバい成績に(滝汗)。試験が何度かあったのですが、AからE(Fだったか?)で評価され、Dがギリギリセーフ(合格)の成績だったのですが、Dばっかりを取っていたため、最後の二回試験直前まで冷や汗をかいた覚えがあります。
二回試験は何とか合格したため、晴れて弁護士資格を得て、翌年の初めから森・濱田松本法律事務所に入所することとなりました。
6.森・濱田松本法律事務所
森・濱田松本法律事務所は、通称MHMと呼ばれているところですが、いわゆる「四大法律事務所」といわれ、大企業の法務、大規模なM&Aやファイナンス等の取引案件を扱う事務所です。私(荒木)が入所した当時で弁護士数が約330人、業界3位の規模を誇っていました。丸の内に新しくできた丸の内パークビルディングに入っており、その当時の坪単価は○万円(今のアンサーズ法律事務所の賃料の8倍)だったという噂も。
事業形態は、パートナーと呼ばれる経営者層の弁護士(当時約80人)とアソシエイトと呼ばれる勤務弁護士(一部例外はあるもののパートナー以外)に分かれており、アソシエイトが働いた分についてパートナーがクライアントにタイムチャージとして請求し、アソシエイトはパートナーから給料をもらうという形式になっていました。
ピカピカの一年生の私(荒木)は、初めての仕事ができることに胸を躍らせて事務所に入ったものでした。そして最初に配属されたのが、ファイナンス系の不動産ファイナンス関係の部署。そして最初に割り当てられた案件がなんと270億(!)という規模(もちろん一人でやれという話ではないですが。)。当然ですが、司法修習でそんなことを教えてもらえるような話ではないという金融商品取引法の知識を駆使するような案件ばかりを扱うことになりました。
その後、M&Aを中心とする部署に異動、さらにREIT(不動産投資信託)を中心にする部署に異動となり、結果的にはREIT関係を取り扱う期間が一番長くなりました。
いわゆる「弁護士的な仕事」としての訴訟や紛争処理といったものは、とんと扱ったことがなく、訴訟というのも退所直前の時期に訴状を1回作った程度しか扱っていませんでした。逆に、どれもこれも大きなディールばかりでしたので、1つでも問題が起こったら大変なことになるわけで、コンプライアンスに対する感覚であったり、書面の正確性に対する感覚であったりは大変に鍛えられました。このあたりは今の仕事においても脈々と生き続けている部分であると言えます。
ということで、入所後はなかなかに難しい仕事をやっていたわけですが、それだけに自分と合わない部分も出てくるものです。
そんなわけで当時は転職しかないと考え、転職活動をしていたわけですが、当時は市況が良くなかった(若手の弁護士数が多く、買い手市場になっていた)のと、今のように転職の情報が流通しておらず、どうやったらいいかわからん、という状況でしたのであまり選択の余地がありませんでした。
それでようやく司法修習の同期から紹介してもらった札幌の事務所に「拾ってもらった」というのが実際のところでした。2012年8月にMHMを退所し、10月から札幌みずなら法律事務所に移籍することが決まりました。
事実経過としてこんな感じであったわけで、当時はなかなかに厳しい時代としか見ていなかった時代ですが(笑)、今となっては非常に貴重な体験をした時代だと感じています。それというのも、これだけの密度で働く時期というのはそうそう体験できないことですし、それを曲がりなりにもこなしていたというのは自分の中の限界値を大きく引き上げてくれたように思います。一方で、自分の中では「こんなもんじゃない」という思いを持ち続けていたことを再認識させてくれる期間でもあったように思います。そうであったからこそ、転職後にまずやらなければならないと思ったのは自己認識の改革であり、それがいい方向に進んだからこそ今の仕事と生活があるものだと思っています(この辺りは簡単にまとめられるはなしではないため、いずれ補足的な記述を追加することになろうかと思います。)。
7.札幌移籍
札幌に移籍した私(荒木)が入ったのは、ボス弁(経営者弁護士)が1人、イソ弁(勤務弁護士)が1人(司法修習の同期)の何の変哲もない街弁(街の弁護士。街の電気屋さんみたいな感じです。)の事務所。それまで300人規模の法律事務所にいたことからすると、全くの隔世の感がありました。
そしてこの段に至って初めて、離婚、交通事故、債務整理といったいわゆる一般民事事件に触れることになりました(刑事事件はMHM時代にも経験していました。)。そこで感じたのが、「世の中、そんなに綺麗に整理されていないんだ。」ということ。これはなかなかに衝撃がありました。それというのも、ここまでお読みになって頂いたとおり、私(荒木)は勉強してきた期間が大半であり、仕事を始めてからというもの、大企業の人としか接してこなかったわけです。本当の意味で、他人の人生の悩みや苦しみなどといったものに直に触れたのはこの頃だったのかもしれません。
経済的な面でも大きな変動がありました。やはり四大法律事務所というのは、全国的に見ても給与水準というのはトップクラスであったわけで、ほぼ何も考えず(汗)転職してしまった私(荒木)が給与ダウンを避けられなかったことはいうまでもありません。それを慮ってボス弁は、「荒木先生、ごめんな。給料が半分になってしまって。」と言ってくれましたが、何も考えていなかった私(荒木)は、「先生、違うんです。半分じゃないんです。3分の1なんです。」と言い放った記憶があります(笑)。実際の金額は想像にお任せします(汗)。そのように定額で頂ける給与は激減したわけですが、運よくというべきか、個人事件は最初からそれなりに取れるようになっており、給与+個人事件の金額でいえば、東京時代から減少するということはありませんでした。
そのような金銭的なものを除いていうなれば、一番うれしかったのはボス弁から大変に重用して頂いたというか、肯定的な評価を常に頂いたことです。確かに、この当時でも契約書関係については、東京時代に散々鍛えられてきましたので、契約書を作成するスキルやレビューするスキルはおそらく札幌ではそれなりのところまでの力があったのでしょう。しかし、こと一般民事の事件処理であったり、その手前の一般の方をお客様として扱うスキルといったものはまるで大したことがなかったはずです。それでもボス弁は、(どのような意図であったかはいまだに明確に確認していませんが)常に肯定的な評価をして頂き、私(荒木)からするといいところを伸ばしてもらうような教育をして頂いたように思います。この時期において、それまでとんでもなく低かった自己肯定感というものが初めてプラスに転じたような思いがありました。この点においては、ボス弁に感謝してもしきれない思いを持っています。
そんなわけで、居心地がいい事務所であったのですが、私(荒木)はせっかく北海道にもどってきたがため、どうしてもこれをやりたいという思いが募っていました。それが「北海道経済を良くする」ということです。なぜ外様の私(荒木)がそのような想いを持つにいたったか、ということですが、短期間ながら司法修習、札幌でのイソ弁時代を過ごさせてもらい、本当に快適な思いをさせてもらいました。その一方で、どうしても経済のレベルは東京に見劣り、それに起因して人の幸福レベルが抑えられてしまっているのではないかと感じたわけです。だからこそ「一隅を照らす」ということであったとしても、自分が何らかの事を成し遂げ、経済に貢献していきたいと考えるに至りました。
このような想いがあったため、やはり自分で事務所を立ち上げなければと思うに至り、独立を志向するようになりました。
8.独立開業
ボス弁からはご快諾を頂いて、独立開業の準備を進め、平成26年(2014年)にアンサーズ法律事務所を開業。最初は、中島公園付近のレンタルオフィスで、広さが5坪もないという超狭小物件(!)。ある意味で、スタートアップとして固定費をかけないという考え方は合っていたのかもしれませんが、やはり世間から見た場合の見た目としては少し落ちるものがあったかも知れません。スタッフとして最初から知り合いの方に来て頂き、弁護士1名、スタッフ1名の事務所としてスタートしました。
嬉しかったのは、事務所開所に当たって数多くのお花などを頂いたことでした。それというのも、この時期というのは私(荒木)が札幌に来て2年足らずのときで、さほど知り合いも多くありませんでしたが、それにもかかわらず多くの方のお目にかけて頂いたという部分があったからです。開所にあたっては、事務所の近く(というか隣)にあったノボテル札幌(現・プレミアホテル中島公園)で開所パーティーを開き、多くの方にお越し頂きました。
そんなわけで滑り出しは順調でありました。
立ち上げ当初の事務所ということで、何でも仕事はやるという姿勢で、臨んでおり、それはもう色々な仕事をやりました(というかいまだに結構いろんな仕事はやっていますが…。)。経営自体は順調に顧問先数、売上げともに伸びていきました。経費も事務所の家賃もさることながら(何と5万円以下(笑))、他のことにも経費を使っていなかったため、経営面ではまずまず安定していました。
立ち上げ当初の時期、ひょんなことから、数件、法人破産の案件を連続して受けており(それも何故か北見と旭川ばかり(笑))、これが比較的経営の基盤を支えてくれていました。しかし、法人破産の案件というのは、期限がタイトで、業務量が多く、しかも怒ってる人を相手にしなければならないため(汗)、結構負担の大きいものでした。私とスタッフ1名という体制ではどうも負荷が大きく、それも一因となってスタッフの退職が相次ぐという事態を招いてしました…。
そんな影響は私(荒木)の体調にも及び、ある頃からやたらと疲労感が強くなる、朝事務所に行きたくなくなる、寝付けない、気が重いなどといった症状が出始めました。仕事において「ミスできない」というプレッシャーも相まって、精神を病み始めたわけです。この話はあまり(というか全く)公にはしていなかったのですが、結果的には1年半にわたって通院を続けることになってしまいました。
精神を病んだことのある方はお分りになるかも知れませんが、仕事をしながら体調を立て直すというのは本当にキツいものがありました。それも、私(荒木)は一人親方的な存在ですから、病んだことを公表するとなると依頼がぱったり途絶えるという恐怖もあり、妻と病院の先生以外には全く話したことがありませんでした(本当に今回、初めてその他の第三者に発表しています。)。
今振り返ってもなかなかに辛い状況ではありましたが、1つだけ、絶対にこれだけは守ろうということがありました。それが「自ら崩れない」ということです。症状自体は、簡単にコントロールできないとしても、それ以上に被害を拡大させない、すなわち、仕事を投げ出したりしないこと、人間関係を毀損するようなことをしないこと、余計に動けなくなるような考え方をしないこと、などを意識していました(どこまでできていたのかわかりませんが…。)。
そんなわけで、長期間かかりましたが何とか寛解に至り、普通に生活と仕事ができるまでになりました。本当に当時お世話になった医師の先生には感謝です。
この経験によって、様々なものを学びましたが、精神を病んで苦しんでいる人の気持ちが良くわかるようになりましたし、仮病の人を見抜けるようにもなりました(笑)。それよりも何よりも、自分自身が困難を乗り越えたという自己肯定感や将来に対する希望を持てるようになったことが大きいように感じています。
そうしたことを通じて顧問先数が一気に増えた時期もあって、今ある事務所に平成28年(2016年)に移転しました。外観も瀟洒な建物になり、広さも格段に大きくなって(5坪弱→18坪強)、拡大路線を目指せる体制が進みました。その後は、人員の増強などを経て、現在はスタッフ3名の態勢となっています。
これまでに累計では約60社の顧問先様に関与させて頂き、一定程度、「一隅を照らす」といいうことはできつつあるのかなと思っております。
令和元年(2019年)には、事務所開設5周年記念パーティーを、5周年の約1か月前に思い付き(笑)、スタッフからブーブーと批判を浴びながら開催しましたが(汗)、予想をはるかに上回る約90名の方にご出席いただき大変な盛況となりました(大半の方が有料にもかかわらずです。)。本当にこれまでお世話になった方には感謝の気持ちしかありません。
9.アライアンスの形成
その一方で、私(荒木)は、単に自分の事務所の収益だけを考えてきたことよりも、むしろ後に述べるように他業種とのアライアンスの形成に力を入れてきた部分があるため、その点も重要な経歴であると言えます。
その第一弾ともいえるのが、社会保険料の適正化を軸にして、企業のお悩みを解決するための集まりを作ったものでした。このときには、特に明確なユニット名(?)は名付けなかったのですが、社労士、税理士、司法書士、行政書士の皆様とタッグを組み、全道各地をセミナーをして回りました。
次に、家族信託のニーズの高まりを受けて、家族信託に対応するユニットを結成し、公認会計士・税理士、司法書士と協働して動くこととなりました。こちらは発展的に法人成りして、現在でも株式会社つなぐ相続アドバイザーズとして存続し、活動を継続しています。
さらに、直近では、M&Aの機運の高まりを受けて、一般社団法人を結成しました。こちらは、証券会社が母体となり、公認会計士、税理士といった士業とともに、社労士、行政書士、保険代理店、オンライン記帳システム会社(といったら大体わかると思いますが(笑))といったところと協働して事業を進めています。
このように異業種と連携を図ることは、ある意味で弁護士の常識とはずれているのかも知れませんが、私(荒木)としては、これは極めてまっとうなことであると考えています。それというのも、弁護士が弁護士の仕事として解決できることの範囲は極めて限定されており、他業種の支援を頂く必要な案件がほとんどであるからです。むしろ、典型的な交渉事件や紛争事件以外で、何らかの事業の支援をしてこうとなれば必ず他業種の介在する必要が生じるのではないかと思っています。
そんなわけで、私(荒木)は「弁護士よりも多くの税理士を知っている弁護士」みたいな存在になってしまったわけです(ただ弁護士会に顔を出していないだけかもしれませんが(汗)。)。
このように他業種とコミュニケーションを取れるというのが私(荒木)の一つの売りであり、反面でこれなくしては弁護士としてやっていける気がしないというのが実情のところです。これからの時代、士業間の壁だけでなく、士業と一般事業会社の壁というのもどんどん崩れてくるでしょうし、またそうあるべきではないかと考えています。ある意味で、そのような時代を先取りして動いているというように見て頂ければ本望です。
10.社外役員就任
そうこうしているうちに、ひょんなことから株式会社土屋ホールディングスの社外監査役のお話を頂くこととなりました。こちらの会社をご存知ない方のために申し上げておくとすれば、こちらは札幌に本社を置くハウスメーカーで、2019年に創業50周年を迎えた会社です。2019年10月期では、売上高で約300億円、東証二部、札証に上場している会社です。
この件の発端といえるのは、私(荒木)が土屋ホールディングスの前身である、土屋ホームの創業者である土屋公三会長の経営者向けの塾である「人間社長塾」に入ったことでした。この塾は、もともとが土屋会長が現社長の土屋昌三社長に事業を引き継ぐにあたって講話を行おうとされたもので、第1期生は土屋社長の他に公募から選ばれた錚々たる企業の若手経営者が名を連ねていたものでした。本来は1期のみで終了予定でしたが、リクエストが多く、翌年以降も開催され、結局第10期までを数えることとなりました(現在はこちらの形式のものは終了しています。)。私は、第6期生として参加したのですが、その中のとある懇親会において、先輩にあたる第3期生の知り合いの方から、「家族信託(相続対策)をしているのなら土屋さんとコラボしたらいいんじゃない?」といわれ、半ば強引に現土屋ホーム不動産の社長さんなどをご紹介頂いたのがきっかけでした。
つなぐ相続アドバイザーズとの関係では土屋ホームの不動産部門(当時)と業務提携をさせて頂き、度々、セミナー講師としてお招きを頂いたりしておりましたが、それほど多くのやりとりはない状態が続いていました。そんなある日、突然、事務所に土屋ホールディングスの現副社長からお電話を頂き、あれよあれよと社外監査役就任の話が進んでいきました。そして平成31年(2019年)1月に、株主総会でご選任頂き、社外監査役に就任することとなりました。
後日談ではありますが、前任の社外監査役の弁護士の先生が(明確に決まっているわけではないかと思いますが)役員定年的な年代となられ、後任を探されていたということのようです。そこで前任の先生が「弁護士を選ぶなら若い人を選んだほうがいいのではないか。」と発言されたことから私のほうに話が来た、というのが実情だそうです(具体的に私を推薦して頂いたわけではありません。)。
そう考えてみると、なかなかに不思議な経緯であったようにも思えます。
また、翌年である令和2年(2020年)6月には株式会社エコミックの社外取締役(監査等委員)に就任しました。
こちらの会社についても少し解説しますと、キャリアバンク株式会社の子会社で給与計算・年末調整のアウトソーシングを受けている会社です。前期(2020年3月期)の売上げが約13億円ですが、札証アンビシャスに加え令和2年4月にはJASDAQにも重複上場を果たしました(それにしてもコロナど真ん中のなかなかの時期です(汗)。)。
こちらの件についても、話はだいぶ前にさかのぼります。私(荒木)は前述のように、北海道に地縁血縁ほぼゼロの状態で札幌に来たわけですので、何らかのつながりを持っていなければ仕事などできるはずもないと思っていました。そこで札幌にきたての頃にはありとあらゆるといっていいほど多くの会合に顔を出してきました。その中の1つに大学のOB会である如水会(札幌支部)がありました。こちらには多くの立派な経営者の方も所属され、同窓ならではの忌憚のない情報交換がなされる場ができていました。
そんなわけで如水会に通うようになり、エコミックの熊谷浩二社長と知り合ったのが7年少々前ではなかったかと思います。本当にフランクな人柄の方で、ちょくちょく飲みに行って頂くようになりました。社外役員の話にしても、平成31年の冬頃、熊谷社長と飲んでいた時に「青島行ってみたいっす!」(※青島にはエコミックの子会社があります。)というノリと勢いでお願いをしたところ、ご快諾を頂き(本気で来ると思っていなかったのでしょう(笑)。)、本当に5月に1泊2日の弾丸ツアーで(!)青島を訪問しました(今考えるとお忙しいところ、無理を申したと反省しています。)。そんなノリでしたが、その6月の総会前に「補欠役員として名前だけ貸してくれる?」と軽いノリで(?)補欠役員のポストを頂きました。そして、コンプライアンス強化の要請もあって、翌令和2年6月の株主総会で正式な社外取締役に繰り上げて頂きました。
そんなわけで現在(令和2年7月現在)、2社の上場会社の社外役員を務めているわけですが、結果的には37歳にして創業メンバーでもなく上場会社の役員を2社務めるというそれなりのレアキャラとなっています。これは何も私(荒木)の能力がズバ抜けているとか、弁護士としての知識が熟達しているとか、仁徳が劉備玄徳並みだとか、そういう話ではありません。たまたまに過ぎないんです(笑)。
しかしながら、本当に故なきことかというとそうでもありません。理由があるとしたら私(荒木)が「ご縁を大切にしようとする思いだけはあった」ということなのでしょう。ブログでも柳生家家訓の「大才、中才、小才」の話をよく書いていますが、ご縁を大切にするということはこのような意外な結果、成果をもたらしてくれるものということを知りました。
そんなわけで長々と書いてきましたが、ひとことでいうなれば「ご縁があって2社の社外役員をやらせて頂いています。」という話でした。
11.M&Aの取り組み
このような社外役員就任の動きと前後して、令和元年(2019年)7月に一般社団法人北海道M&A協会を立ち上げ、代表理事に就任しました。これもまさしくご縁がなせる業で、つなぐ相続アドバイザーズのセミナーへのご協賛をお願いした証券会社さんが母体となり、協会を設立することとなりました。
この設立経緯も、いわば思い一つ、とでもいえばいいのでしょうか、何かモデルがあったり、何か裏付けがあったりしたわけではありません。証券会社さんとお話をしている中で、「北海道企業の疲弊が著しい。」「事業承継問題を解決しなければならない。」といったところで見解が一致したため、「じゃあ何をしよう?」というところで動き始めたのがたまたまM&Aだったということでした。
現時点で設立して約1年を経過しましたが、まだまだ具体的な動きとしては乏しいところは否定できません。しかしながら、理事の顔ぶれもそうですし、セミナーをやった際に当協会の会員になって下さる方の率も相当なものがある、新聞などからの取材も多数来ている、といった意味において期待感は持って頂いているのではないかと考えています。
実際の業務内容としては、現在(令和2年7月現在)のところ、M&Aの仲介・FAの業務、士業を中心とした士業への業務支援、M&Aに関する情報の集約、セミナー活動といったところが中心になっています。
私(荒木)は、M&Aばかりをやってきた弁護士ではありませんので、教科書的な知識や現場における経験といったものでM&A専門の弁護士と比べると必ずしも優位性を発揮できるとは限りません。しかし、協会を立ち上げて、M&Aの組成の段階から関与しているという経験においては一日の長があるのではないかと自負しております。それというのも、弁護士の業務というと、基本的には材料をもらったうえでいかに処理するのかに終始しがちですが、材料を集める段階からやっているという弁護士はそんなに多くはないからです。言ってみれば、通常のM&A弁護士が料理人として台所で包丁さばきを競っているとすれば、私(荒木)のやっていることは、料理人であるにもかかわらず、漁にまで出かけて行っている感じの動き方をしています。
このようなことをどう評価されているのかはわかりませんが、私(荒木)としては、これからの時代、弁護士が本当の意味で実社会に役に立つ動きをしなければならなくなってくることは毎間違いなく、法律を知っていればいいだけの時代は終わりを告げています。私(荒木)のような動きか方が正解であると断言するつもりはありませんが、「こんな動き方もあるんじゃないでしょうか。」とお示しできただけでもこの協会を立ち上げた意味はあったように思います。
もう一つ感じたのは、「企業の生の声を聞ける」というが大きいように思います。弁護士として企業に関わらせて頂く分には、当然のことながら、紛争にせよコンプライアンスにせよ法律が切り口になるわけで、あまり経営全体に関わるということは多くありません。それに対し、M&Aという切り口であれば、経営全般へのインパクトがある場合が多く(売主ですと基本的に経営を辞めてしまうわけですし)、生の声を聞いて、それを反映することが求められます。このような意味で弁護士とは違った視点で企業を見ることができるようになったことも大きいでしょう。
12.業務に対する姿勢
そんなわけで様々な役職を兼務しているため、何屋さんなのかよくわからない状態になりつつあります(笑)。そんなこともあってか、「荒木さんって何が得意分野なの?」と訊かれることも多くあります。
ここまでお読み頂いた方は、企業関係を中心にやっていることがお分かり頂けるかと思います。そうでなくとも名刺の取扱業務の一番上には「企業法務」と書いてあるのでわかってくれそうなものですが、どうもイマイチピンと来ない方が多いように見受けられます。その原因は何かと思いを巡らせるとすれば、札幌で企業法務専門でやっている弁護士が少ないことが大きいのではないかと思われます。「弁護士=法律の何でも屋」的なイメージが強く、私(荒木)がこれだけ企業法務、企業法務と言っていても離婚や交通事故などのご相談も一定数寄せられてきます(それはそれでありがたいお話なのですが。)。
現在のところは、企業関係を幅広く扱っているわけですが、ゆくゆくの構想としては、事務所の規模を拡大し、労務関係であれば労務関係で、M&A関係であればM&A関係で部署を作り、人を割り振って対応できる態勢を整えていきたいと考えています。企業法務といっても色々な切り口がありますが、最も得意とする業務は契約書は社内文書を作る業務になります。
もう1つの視点を挙げるとすれば、「予防法務」と「戦略法務」です。あれ、2つでしたね(笑)。「予防法務」というのは紛争が発生する前に予防するための法務対応、「戦略法務」というのは企業の成長戦略を支えるための法務対応、とでも定義できるかと思います。
予防法務の観点からすると、取引を行う前には必ず契約書(又はそれに準ずる書面)を作って、そのとおりに取引を進めましょう、ということが基本になります。また、労務の関係では、雇用契約や就業規則の整備はもちろんですが、実際の労務管理の運用もまた重要なことなってきます。そういったことに関して企業にアドバイスを行っています。
また、戦略法務に関しては、まだ数としては多くありませんが、M&Aの検討だったり、ベンチャーキャピタルからの出資を受けるなどの資本政策を一緒に考えさせて頂くなどの対応を行っています。
これらの予防法務や戦略法務は企業の発展においては欠かせないものといえますが、必ずしも重視されていないのが現状です。これらをどの企業も当たり前に実践するようになるようにすることが一つの目標になっています。
現在、法務に関するニーズとしては紛争処理が中心ではないでしょうか。すなわち、取引でもめた、従業員から訴えられた、といったような場合に弁護士を使うということが通常の感覚でしょう。
しかし、私(荒木)は、「紛争処理はただの過去の振り返り作業」と位置付けていますので、ある程度、通常の事件処理を行うのであれば、そう大差が発生することはなく、落ち着くべきところに落ち着くものである、というのが私(荒木)の感覚となっています。
このため、私(荒木)の発想としては、「何かが起こってしまったらある程度はやむを得ない、何かが起こる前の行動が全てである」と考えています。
13.私(荒木)の目指すもの
以上のような形で現在の私(荒木)が形作られてきたことがお分かり頂けたかと思います。
まとめの代わりとして私(荒木)が何を目指しているか、ということについてお話したいと思います。これをいうと、クサいと言われるかも知れませんし、偽善者と言われるかも知れませんし、お題目だと言われるかも知れませんが、一言でいうなれば「人の幸せを実現する」ということが最大の目標になっています。抽象的にはですが。
では「誰の幸せか」ということであったり、「どんなことが幸せか」ということであったり、疑問が生じうるところだと思います。
まず「誰の幸せか」ということでいえば、「なるべく多くの人」としかいいようがないのですが、幸か不幸か、人は自らの目の届く範囲でしか現実味を持った判断ができない生き物ですので、やはり身近な人、関わったことのある人を優先してしまうのはやむを得ないと考えています。しかし、少なくともその範囲を少しでも広げていこうとすることはできますし、関わったことができなくとも、想像の領域を鍛えて会ったことのない人にも広げていくことはできるかと思います。
その意味でいうと、現在のところ、一応のドメインとしては「北海道」という範囲をメインに据えて考えています。この理由付けも様々にありますが、「自分が影響を及ぼし得ることが想像できる最大範囲」として考えている部分があります。もちろん、北海道外を無視しているわけではなく、私(荒木)の成長段階に応じて拡大していくことも視野には入れております。
一方で、「どんなことが幸せか」ということについては、「経済的な満足」というのをメインに掲げています。そうすると、「お前は金の亡者か」といったような声が聞こえてきそうですが、もちろん、金以外のことをないがしろにするつもりはありません。しかし、金があれば助けられること、金がなければ助けられないこと、といったものは世の中のかなりのウエイトを占めていることもまた否定できません。
弁護士の業務というと、どうも正義感や高潔性が前面に出されがちですが、私(荒木)自身は過度にその辺りを強調されるのは好きではありません。もちろん、弁護士が関与する案件の中には主義主張の問題であり、金の問題ではない案件もないわけではないですが、統計的に見れば、金の問題を争っている事件が大半なわけですし、その部分を捨象してしまうのは本質的な物の見方とはいえないでしょう。私(荒木)の場合にはこの問題を直視するところから思考を開始しており、一番金の問題を扱っている弁護士だからこそできることがある、というところに思いを致しています。
この発想があるからこそ、「単なる紛争処理」ではない領域で弁護士が活動しなければならない、と考えている次第です。
以上を踏まえて、私(荒木)が何をやっていきたいか、ということについて書きたいと思います。
まず、企業法務を中心として扱っていきたい、ということを述べましたが、企業の真の向上を目指すのであれば、スポットでの対応ではなく、継続的な関与が必要になってきます。それというのも「紛争は起こってからは解決できない」のであり、「予防法務と戦略法務が重要」であるからです。私(荒木)自身、最初から継続的な関与を依頼されることは正直、多いとはいえず、何らかの紛争が発生した際、顧問契約を結ばせて頂くことが多いのですが、本来的には、会社を立ち上げた当初から法務ニーズは発生しているのであり、弁護士を使うべき状況にあるのではないかと考えています。そのように顧問弁護士がどんな企業にいるのも当たり前になるような常識を作って行きたいと考えています。
また、弁護士業務だけに携わっているのであれば、どうしても視野狭窄、独断的になってきてしまいます。正直に吐露するとすれば、一般的な弁護士業務というのはどうしても守りが強くなるのであって(強気に訴訟を提起する、というのはちょっと別物の話です。)、即座に売上げや利益につながるようなものではないですし、必ずしも企業の動きのスピード感について行けない部分もあります(ITやAI関連などの先端分野では法律が古い、という問題も含めてです。)。このため、弁護士業以外の業種と協業することが事業を作るにあたっても必須であると考えていますし、スケール可能性の観点から見ても必要的なことだと思います。この点において、私(荒木)自身、異業種とのつながりを作っていくことに関しては人後に落ちない自負はありますが、より具体的な事業に落とし込んでいくことを進めて行きたいと考えております。
そして、法律事務所の形態としても一定規模まで拡大させ、弁護士それぞれをブティック化(専門領域ごとに分配していく方式)させ、それを統合的に動かせる仕組み作りを実現したいと考えています。事務所の支店については、テレワーク化の流れができつつあるため、必ずしも、ということではありませんが、東京や北海道の主要都市に展開していくことを構想しています。
14.まとめ
以上、長々と書いて参りましたが、私(荒木)のことを少しはご理解頂けましたでしょうか。
ここまでのお話というのは、現時点での私(荒木)の振り返りなだけで、これからもどんどん変化変容を果たしていくつもりです。そのため、時には大幅な加筆修正がなされることもあるでしょう。しかし、現時点でのマイルストーンとして私(荒木)自身のことを語らせて頂き、皆様にお読み頂いたことは大変に大きな価値を持っているものと確信しています。
ここまでお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。