こんばんは、荒木でございます。
最近、よく思うこと、というかブログを書いていないので言いたいことはたくさんたまっているのですが(笑)、今日は「のに」についてです。
いえ、ノニジュースの効能について語るわけではありません(汗)。
「~してやったのに」とか「~だと思っていたのに」といった意味での「のに」です。
これって結構使ってしまいがちな言葉ですし、客観的な意味での関係性で言えば、「~のに」と言ってもおかしくない関係性も多くあるのでしょう。
実際、私(荒木)も使ってしまうこともありますし、それ以上に心の中でそう思っていることもしばしばあるものです。
例えば、後輩に対して酒や食事をご馳走することは、度々あるのですが、その中で不義理を働くような後輩がいれば、ついつい「飯おごってやってるのに」などと思ってしまうこともあったりします。
そんなときには「自分は人間ができていないな」と思うこともありますが、そもそも抜本的にどう考えるべきであったのかを考え直さなければならないようにも思います。
上記の例でいえば「そもそも後輩は荒木と飯を食べることが快だったのか、不快だったのか」、さらに細かく分類していえば、「荒木といることを望んでいたのか」とか「人と飯を食べることを欲していたのか」という問いに分解されます。
本来は、飯に誘うにしても、それくらいの粒度で考えておかなければならないのかも知れません。
もちろん、これには「飯を食べさせてもらってるのだから○○なのだ当然だろう」とか「行きたくないならその前に断るべきだ」とか「これだからZ世代はわからないんだよ」とか(笑)、いろいろな意見もあるでしょう。
ただ、この話は各論的なものではなく、根本的に自分の中でなぜ「のに」という言葉が出てくるのかに立ち返らなければならないのではないかと思います。
その1つの答えが「期待値の違い」。
すなわち、やったほうは「これくらいの価値があるだろう」と思ってやっていることが、相手にとっては「むしろ迷惑なんですけど」くらいに思われているかも知れないということです。
やる側からすると「相手が期待しているであろうことの期待値を読み違えている」ということから発生するエラーです。
これって、本当に法的な紛争の火種になることが多いですし、私(荒木)自身が仕事をしていて、値決めをするときなどに本当に難しいことだと感じている部分です。
何かしら相手に価値を提供しているものと思っている側にとっての価値が、受け手にとっての価値基準に合致しているかの判定というのは本当に難しいところがあります。
このことに対する対処法は、おそらく2つです。
1つが、「価値を感じてもらえる人にしか価値を提供しない」ということ。
もう1つが、「『これが価値である』という価値観を創造する」ということ。
すごく仰々しく聞こえるかも知れませんが、よくよく考えると程度の差ことあれ、この2つに尽きることになるように思います。
商売の文脈でいうと、いくら値引をしようが、サービスをしようが、欲しくない人は買わないでしょうし、客観的に見ればそれほど必需品でもないのに売れているものというのは、何らかの新しい価値観に基づいていることに気づくかも知れません。
といったようなことを考えてみると「~のに」と思ってしまうのは、結局、自分の価値観の問題ですし、思考の構造さえわかれば難しいことではないはずです。
しかし、人間の難しいところが、理詰めで分かっていたとしても感情が付いてこないというところ。
「~のに」というのはある意味では返報性の原則に忠実に従った感情であり、抗いがたい部分はあるのでしょうが、この感情をコントロールすることができればより効率的な意思決定ができるに違いないと思った今日このころでした。