こんにちは、荒木でございます。
今日は朝から朝から恒例のお灸、午後はwebセミナーの視聴と作業の1日でした。
さて、今週、当事務所のスタッフが1名退職したのですが、運悪く家族にコロナ感染者が出てしまったため、最終週は出勤できないことに(汗)。
それでも何とか昨日は出てこられることができ、最終出勤日には間に合いました。
以前にもあったのですが、このようにコロナで休業した場合には、国から助成金が出る仕組みがあります。
<新型コロナウイルス感染症による小学校休業等対応助成金>
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/kyufukin/pageL07_00002.html
これを今回も利用して通常の勤務時と同じように給料を受け取ってもらうこととなりました(申請するのは本人ですが。)。
しかし、そのスタッフによると、ママ友の中では子供がコロナに罹って休業することになっても、事業主が助成金の申請に協力してくれないところが多いとのこと。
私(荒木)としては使える制度は使うべきだと思っていますし、少しでも従業員のためにやってあげられることがあるのであれば、やってあげるのが使用者としての務めだと思っています。
言ってしまえばこの程度のことは「当たり前のこと」ということです。
こんなことは些末なことですが、一般化していうと「当たり前」ということの水準の高低によって成果というものは大きく変わるもの。
何か問題があったら上長に報告連絡相談するのが当たり前
他人に何かやってもらったらお礼を言うのが当たり前
日程調整のメールは極力すぐに返すのが当たり前
何かに困っている人がいれば解決策を提案するのが当たり前
面白そうな人を見たら誰かに紹介するのが当たり前
などなど。
人によって色々と「当たり前」の基準があるものです。
「当たり前」ということを言い換えるとすれば、習慣であったり、ルーティーンであったり、無意識的な意思決定基準であったりするわけですが、要するに人が動く原理に組み込まれているもの、ということになります。
何も考えないでも呼吸をするように自然とやるのが「当たり前」なわけです。
人は怠惰な生き物ですから、やり慣れないことをやろうとするとどうしても精神的にも肉体的にも負荷がかかるのであり、やり慣れないことを避けようとする修正があります。
逆に、「当たり前」の基準が高ければ、成果の出ることであったり、結果につながることであったり、もっとわかりやすく言えば金になることであったり(笑)、そういったことが自然とできるはず。
「当たり前」の基準の高低によって結果が変わるのは明らかですね。
だからこそ自分の中の「当たり前」像を間断なくブラッシュアップしていくことが大事なのではないかと思う今日この頃です。
【東京進出まで あと45日】