投稿日:2022年12月13日

【札幌 弁護士コラム】法律相談に見る「意思と意図を持って生きる」ことで生まれる効率化

おはようございます、荒木でございます。

 

今日の午前中は事務所での仕事、午後から東京で勉強会仲間との懇親会と打合せです。

そろそろ来年の計画を発表したいと考えておりますので、乞うご期待。

 

さて、最近よく思うのが「無為に生きる」ことと「意思と意図を持って生きる」ことの違いについてです。

「無為に生きる」というと、日々の惰性に任せ、なされるがままに時を過ごすこと。

一方で、「意思と意図を持って生きる」とは、自ら目標を設定し、その目標に対して近づけるよう相違工夫し、努力を積み重ねていくこと、とでも言えるでしょうか。

 

法律相談を受けていてもそんなことを感じることがあります。

端的に表に出てくるのが、「この事案ってどうなりますか。」という相談のされ方。

そして色々と質問をしなければ事案自体もよく説明できないことが多数だったりします。

もちろん法的知識がない方であれば、法的な結論がどうなるかわからないこともあります。

しかし、自然的な意味での感覚というのは法的な結論とも合致することが多いでしょうし、何よりも「法的な結論はこうですので諦めて下さい。」という回答が来た場合にそれを受け入れられるのか、という話になります。

それが「無為に生きる」ことの象徴的な形といえます。

 

一方で、「これまでの経緯はこのような形でまとめてきまして、ここまでは自分で調べたのですが、この部分が分からないので教えてもらえないですか。」という相談をされる方もいらっしゃいます。

当事者意識を持って、自らのなすべき説明を尽くし、自らのためにできる努力を尽くしたらこのような質問になるのではないかと思います。

これこそが「意思と意図を持って生きる」形の現れではないでしょうか。

 

もちろん、こちらも業務としてご相談をお受けしている以上、どんな相談をしてほしいかというのを(あまり)選べる立場にはありません。

しかし、往々にして、というか当然のことかも知れませんが、前者のような方だと法的なアドバイスをしても結果的にうまく行くことは少なく、後者のような方だと納得の結論に至ることが多く見受けられます。

理由を言語化するとすれば、「法的な問題は人生の部分であり、人生全体についての自己コントロール感を持てる行動をしなければ自らの求める位置には到達できないのであって、法的問題にもそのことが妥当するから」とでも言えるのではないでしょうか。

あ、ちょっと難しい言い方すぎかもですね(笑)。

 

もう少し簡単にいうと、「相談に来られるときは何をしたいかをはっきりとする準備をしてきてくださいね。そうじゃないとこちらもやりにくいですし、そちらも満足のいく結果が出ませんよ。」ということです。

これは別に私(荒木)の独断でもないですし、法律相談に限ったことではなく、ありとあらゆる商品・サービスを購入する際に妥当することではないでしょうか。

 

「意思と意図を持って生きる」ことは、外部から得られる便益を極大化させることに必要な、最も大きい要素と言ってもいいのではないかと思っています。