投稿日:2021年08月08日

【札幌 弁護士コラム】東京2020オリンピック閉幕にあたり:改めて感じた外部環境と努力と成果の関係性とは

こんばんは、荒木でございます。

 

ついに東京2020オリンピックも閉会を迎えましたね。

賛否両論あった大会ですが、(今のところ)やっぱりやって良かったね、的な意見が多いように見受けられます。

もちろん、コロナの拡大や財政的な問題についての議論はこれからなのでしょうが、スポーツの持つ素晴らしさというのは何物にも代えがたい一面は見られたように思います。

 

さて、今回のオリンピックは、1年の延期後、かつ無観客、選手たちに行動制限のかけられている中での開催となり、とかくその特殊性が強調されているように思います。

また、卑近なところでは、競歩とマラソンが札幌で行われたにもかかわらず、予想以上の暑さでリタイア選手が多数出たということが問題視されていたりします。

そして一部では、「こんな条件では選手が可哀想だ。」とか「運営側に問題がある。」といったような論調もあります。

 

しかし、条件の設定がそれほどまでに重要なことなのでしょうか。

 

もちろん、競技である以上、競技が開始された以降はルール的に不平等があってはならないのは当然です。

しかし、それに至るまでの条件まで運営側が責任を持つような話なのでしょうか。

そこに私(荒木)は疑問を持っています。

 

オリンピックに出場する選手は、(基本的には)自分の自由意思で参加することを決め、試合に合わせたトレーニングや練習を積んできているはずです。

その前提としては、競技のルールを熟知し、対戦相手のレベルを知り、それに勝つためには何が必要なのかを研究、考察したうえで、対策を取っています。

当然、その中には試合当日までの調整を含むのであり、試合の環境に合わせた対策というのも必要です。

そこにはコロナの環境での制約があり、日本の環境での制約も加味されているのが当たり前だというべきでしょう。

 

そう考えてみると、厳しい言い方かも知れませんが、「コロナだから練習ができなかった。」とか「1年延期されたからモチベーションが続かなかった。」とか「日本が暑かったから力が発揮できなかった。」というのは何の言い訳にもなりません。

そのような環境の調整や外部環境への対応も競技のうちであるからです。

 

念のためですが私(荒木)がここで言わんとしているのは、敗れたことにそのような理由を述べる選手への批判ではありません。
オリンピアンである以上、超一流選手であるのが当然の前提ですし、ほんの少しの差で勝負が決まる世界である以上、このような環境調整の問題での差が順位の差に出ることは当然かと思います。

また、報道によっては、このような環境の問題で負けたことを言い訳にしているような書き方をされることもありますが、これも言葉の切り取り方の問題であり、本人はそう思っていないことも多々あるのではないかと思います。

 

ここで言わんとすることは、人が何らかの成果を意図している場合に、外部環境が必ずしも思うようなものではないことから、環境調整を迫られることは当然の前提にしなければならない、ということです。

よくビジネスは「環境対応業」と言われますが、そのことはまさしくビジネス環境が時々刻々と変化しており、自分の売りたいものだけを売っていたらビジネスとして成り立たないことを指摘しているものです。

 

そして、外部環境に変数が残る以上は、自らの内的な準備において完璧ということはあり得ないことになります。

いくら準備をしても、外部環境が変わってしまえば最適な準備が変わるからです。

だからこそ、準備というのは「成功確率を上げる作業」と捉えなければなりません。

いくら完璧な準備をしたとしても、必ずしも最良の成果を挙げられることは保障されるものではないことを前提として、「確率を最大限まで高める努力をしたか」ということが問われるべきなのでしょう。

 

女子マラソンで8位となり日本選手として4大会ぶりに入賞した一山選手は、物凄いハードトレーニングを積んできたことで有名になりましたが、「この大会に向けてずっときついことも苦しいことも我慢してやってきたうえでのこの結果なので、うれしいかというとそこまでうれしくはないが、自分の力は発揮しての8位だったと思う。」とコメントしているのはまさしく至言なのではないでしょうか。