こんばんは、荒木でございます。
ブログでは大変ご無沙汰しております(汗)。
何とかかんとか無事に生きておりました。
最近はこのご時世のもと、あまり仕事で出歩くことも少なくなっていますが、立て続けに顧問契約を頂くなど、忙しくさせて頂いております。
さて、ここしばらくよく考えていたのは、「意思決定は条件によってなされるものか」ということです。
普通に考えれば、物を買うにすればその値段で安いほうに決まるでしょうし、映画やスポーツ観戦であれば見やすい席から売れていくように、条件で事が決まるといっていいでしょう。
しかし、条件だけで意思決定をしていいのか、ということは少し立ち止まって考えなければなりません。
それというのも、世の中には条件を設定するのが困難な問題があるということ、条件で決まることはより良い条件が出てくる可能性があるということ、という問題が残っているからです。
前者の問題でいえば、例えば結婚相手を選ぶような場面があります。
条件としては、「高収入」「高身長」「高学歴」といったいわゆる「三高」(もう死語でしょうが…。)というものがあったり、「長男」や「次男」といった家族関係のものがあったり、「居住地域」といったようなものがあります。
しかし、本当にそのような条件だけで結婚相手が決まるのか、というとそうではありません。
「優しい」「誠実」「几帳面」といった性格などはファジーなものは簡単に条件化できませんし、「相性」「間合い」「フィーリング」という世界になってくると客観的には全くわからないものです。
そのような意味で何かしらの「ビビビっとくる」(これも死語ですね(笑)。)要素があるはずなのです。
一方で、「条件だけで決めていいのか」という問題が、時間が経過すると最良の条件だったものが更新されていくということです。
例えば、就職における条件というものがそれにあたるでしょう。
最初に就職した会社が第一希望の会社であったとしても、10年20年勤めていれば他の会社のほうが条件が良くなっているということはよくある話です。
そうすると、他の会社に転職することが合理的な選択のように思えますが、それとていずれは別の会社が出してる条件に更新される運命にあるといえます。
そんなわけで、物事が全て条件で決まる、あるいは決めるべきである、という発想自体が疑問に思えてくるわけです。
その理由を考えてみると見えてくるのが、「人には合理性を超えた感情が存在する」ということです。
人は感情を超えて意思決定を行うのは困難であり、又は大きなストレスを伴うものです。
いくら条件がいいとしても、それに感情が動かないのであれば意思決定には至りません。
条件を超えて感情が動く瞬間があるとすれば、それは「夢」であったり、「志」であったり、「愛」であったりするものです。
これらは感情そのものに直接的に作用するような、いわば超越的な要素です。
もちろん条件がこれらの要素を内包している場合もあるわけですが、全く別のところに置かれているようなケースもあるわけです。
しかし、条件は目に見えやすいがために、それだけで意思決定を行ってしまいがちです。
特に大きな意思決定を行うにあたっては、条件を超える超越的な何かがあるはずではないかと、条件だけで決めることを疑ってかかることが必要なのではないでしょうか。