こんにちは、荒木でございます。
少々間が空いてしまいました。
今日は、最近札幌に引っ越してこられた不動産王(!)の方との会合などの予定です。
さて、紛争案件のご相談で「自分は普通にやっていたら、相手が変な人なのでトラブルになった」という趣旨のお話をされることがあります。
もちろん、その通りのこともあり、相手が一方的におかしいことを言ってくる場合もあるでしょう。
しかし、紛争の結論云々はおくとして、紛争予防の観点からすると少し立ち止まって考えなければなりません。
それは「自分が普通にやっている」のになぜトラブルが発生するのか、ということです。
そもそも「自分の普通」と「客観的に正当なこと」が合致しているのか、が問題です。
例えばの話ですが、世界各国、アメリカにおいては州によって法律は異なります。
一定の薬物が厳しく法律で禁じられているところもあれば、合法で使用できるところもあります。
そのことに鑑みると、「自分の普通」が何にてらして普通といえるのかについて思いを致さなければなりません。
そのためには自分を律しているルールが何なのかを意識していなければなりません。
最低限のルールとして法律がありますが、考えてみるとそれに加えて様々なルールがあるはずです。
弁護士であれば、職務基本規程という弁護士会のルールがあるうえで、法曹倫理という不文律がありますし、その上でここの事案において何をもって正義とするかのルールがあります。
もちろん仕事を離れれば家族のルールがあり、地域のルールがあり、仲間内でのルールがあります。
これらの要素は人によって異なるのは当然ですので、「普通」が全く同じ人というのは存在しません。
これらは殊更に意識しなければ単に「普通」という言葉で済まされてしまいます。
しかし、この「普通」は人によって異なるものであることから、「普通」の間で軋轢を生んでしまうのです。
例えば、このコロナの状況を前提として、それでも会食をすることが「普通」の人もいますし、会食なんかもっての他だというのが「普通」の人もいます。
このようなことの積み重ねがトラブルの前提として存在します。
一方で、全ての人の「普通」が揃うようなことはなく、人が社会的生物として他者と交わらなければ存在しえないことを考えると、何らかの対処をしなければなりません。
その1つが「他者に対する寛容さ」ではないでしょうか。
自分の「普通」と他者の「普通」がぶつかり合ったとき、
「ええんやで…。(生温かい目)」
と、譲れる気持ちこそが軋轢を生まないための第一歩なのでしょう。
この寛容さも人それぞれ異なり、「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す」ような人もいれば、「ビタ1文譲らない」という人もいます。
しかし、短期的な損得をおくとして、長期的に見ればどちらが得をしていくか、わかりますよね?
そんなわけで、今日は「普通」と「寛容」について考えてみました。
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