投稿日:2020年06月25日

【札幌 弁護士コラム】閑話休題:荒木の詳細プロフィール②

おはようございます、荒木でございます。

 

出張などがあり、少々間が空いてしまいました。

今日は朝から調停の対応、午後から顧問先様のご相談、夜は会食をしながらM&Aのご相談という予定です。

明日、エコミックの株主総会で社外取締役に選任される予定ですが、その準備もあり、少し慌ただしい1日になりそうです。

 

というわけで、自己紹介の続きを進めたいと思います。

弁護士になるまでまだもう少しかかります(笑)。

 

こちらについても是非ご感想をお願いたします!

 

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3.大学生時代

そんな無茶苦茶な受験の経緯をたどったわけですが、無事に入学することが許され、一橋大学法学部に入ることになりました。

しかし、18年間、わずか人口6万の三重の片田舎で育ち、ろくすっぽ外に出たこともなかったわけですので、(多摩とはいえ)東京に出てきた荒木少年は戸惑うばかり。とはいえ、あこがれの東京(多摩ですが)に出てきたので、茶髪にして大学デビューを図ろうなどとし始めたわけですが、コミュニケーション能力のなさを遺憾なく発揮してすぐに挫折(笑)。何となくの流れで体育会弓道部に入部することになりました。

この弓道部なのですが、それまで弓道をやったこともなければ弓を触ったことすらなく、「オリター」と呼ばれていた先輩がいらっしゃらなければまず興味すら持たなかったでしょう。当時は全く意識していませんでしたが、これも「ご縁」であり、この頃から実はご縁によって人生が動かされてきたのでしょう。弓道部では、上下関係の礼儀を叩き込んで頂き、酒の飲み方(吐き方も(笑))を教えて頂き、精神力の重要さを学びました。3年生の時には「主務」という渉外を担当する幹部となり、部全体のリーダーシップを図るとともに外部との折衝のマネジメントを務めました。これも今思えば、中学生時代の野球部キャプテンと並んで、今の各事業体のマネジメントの礎になった体験だと思います。

そんなわけで3年生の秋までは弓道に明け暮れていた大学生時代だったわけなのですが、司法試験のほうはというと、この部活が終わるまでの間は完全に棚上げ状態。私のころは、ちょうどロースクールができる時期であったため、法学部というと「猫も杓子も司法試験」状態でそのブームに乗っていたわけで、何となく「何とか司法試験は通るだろう」感を持っており、変な自信を持っていました。考えてみればこれが大きなボタンの掛け違いで、その後何年も苦労を重ねることになりました。

4.大学院生時代前後

(1)大学院入試

ということで司法試験合格を目指すようになったわけですが、これがどうにも簡単ではなかったわけで。

司法試験制度は、私が大学生の頃に大きく変わり、従来のように誰でも受けられる試験(旧司法試験)から、法科大学院を修了しないと受けられない試験(新司法試験)に移行しました。旧司法試験は合格率が低く、時代にもよりますが3%前後で推移していた時代が続いていました。それに対して、新司法試験は当初の発表では70%くらいの合格率を予定しているとされていました。これを真に受けて、大学3年生のころまで勉強を先送りしていた私でしたが、大学受験の経験から、「追い込めば何とかなる」と大いなる勘違いをしていました。

当然、法科大学院もそのステップに過ぎないと思っていたため、軽く考えていたのですが、いざ勉強を始めてみると、学ぶべきことの分量の多さに呆然。周囲の司法試験志望者は、大学1年生の頃から勉強をしているわけですので、相当な差があったわけです。4年生の秋に法科大学院の入試があるわけですが、その前哨戦というべき適性試験というものと既修者試験というものの勉強が間に合わず、ほぼ撃沈状態。ついでにTOEICの点数も出さなければならなかったわけですが(今思うとどこに英語が必要だったのだろうかと疑問ではありますが…。)、こも700点にも満たない体たらく(というかいまだに700点取ったことありません(汗)。)。特に既修者試験の成績がとんでもないことなっていたため(確か50点満点で17点とかそれくらい)、既修者試験の成績の提出が必須の一橋への出願を断念しました。そんなわけで秋の本番にも間に合うことなく、敢え無く東大、慶応、中央ともに惨敗。これまで試験と名の付くものにほとんど落ちたことがなかったため、当時は相当に応えた記憶があります。

 

(2)浪人生時代

そんなわけでやむなく浪人生を開始したわけですが、当時の記憶があまりありません。ただ、毎日、家→スタバ→図書館→ドトール→図書館→家のようなルーティーンをひたすら繰り返していただけの生活を送っていたような気がします(喫茶店は気分転換に場所を変えて勉強していたものです。エクセルシオールのこともありました。)。大体、8時ころに家を出て22時過ぎに家に帰ってくるまでの時間の大半を勉強に充てていたので、1日平均で12時間から13時間くらいは勉強していたのではないでしょうか。当然、遊びに出かけることもなく、飲みに行くこともなく、ただひたすらに淡々と勉強を続けており、まさしく「修行生活」といってもいいような毎日でした。

あまり記憶がない、というのは楽しいこともなかったという意味もありますが、苦しいというのもあまり感じていなかったという意味もあります。この1年間で本当に「努力する」ということの意味を学んだように思います。すなわち、「シャカリキになる」とか「猛烈に頑張る」というのが本当の努力ではなく、「粛々と」、「淡々と」、「平常運転で」やることをやるのが成果につながる努力であるということを身をもって体験しました。

そんな甲斐あって、東大、慶応、早稲田(補欠繰上り)に合格し、東大に進学することになりました(ちなみに中央はまた落ちました。何でだったんだろう。)。

 

(3)大学院生時代

法科大学院に入学してからは、大学の授業とは異なり、出席が必須の授業ばかりで、かつ授業もクラス単位で行われることが多く、さながら高校時代に戻ったような感覚がありました。授業はソクラテスメソッドというものが取り入れられているような、そうでもないようなものが多く、とりあえず授業中に当てられるので気が抜けません。多少飲みに行ったりするようなことはありましたが、この時代も家→自習室→授業→図書館→家みたいな生活を続けていました。どうでもいい話なのですが、自習室で財布なんかを持ち歩くのにポシェットをぶら下げていたので、いつしか「ポシェットの人」と呼ばれていたそうです(面と向かった言われたことはありませんが。)。

この時代、ありがたかったのは一緒に勉強をしてくれる仲間ができたことでした。大学時代にもそれに近いような仲間はいましたが、当時は私の勉強の進度が遅かったため(汗)、対等な立場として教え合うようなことはできませんでしたが、この大学院時代には一緒の場所で勉強して、わからないことを検討し合うような関係ができたことは大変ありがたかったです(まぁ、自習室の個室のようなところを占拠してアホなことを言い合ってた記憶もありますが(笑)。)。今思うとまさしく「衆人環視」の状況が生まれており、継続的な努力を続けるための条件を備えていたように思います。これが1人で勉強をしていたのではどこかで心が折れたり、サボり始めていたりしたことでしょう。

そんなわけで大学院時代2年間を粛々と過ごし、それなりの成績をおさめたので、優を半分以上取るともらえる「成績優秀賞」なるものを頂きました。

 

(続く)

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