投稿日:2020年05月01日

【札幌 弁護士コラム】契約とは、互いを想う気持ちから生まれるものである、という仮説

こんばんは、荒木でございます。

 

今日はGW前の駆け込みということで、

交通事故の新規相談、訴訟案件の和解

手続、懇意にさせて頂いている会社さんの

役員の方の誕生祝い(?)と大忙し

でした。

明日からGWということでじっくりと

仕事に勤しむことができそうです(笑)。

 

さて、いつも思っていることですが、

「日本の会社は契約書が苦手」

ということです。

あ、他の国のことをよく知っている

わけではないのですが。汗

どうも契約書はブラックボックスであり、

相手にいかに内容を分からせないままに

ハンコを押させるか、ということが

至上命題になっているように

思われてなりません。

 

今日もそんなことを思わせる出来事が

ありました。

「これ、中身を見ないで契約した人の

ことをどう思っているのだろう。」

というのが率直な感想になるような

契約書でした。

 

もちろん、契約書の中にも様々な

目的や用途があり、全ての契約書が

吟味に吟味を重ねて作られるものでは

ありません。

しかし、経済的背景や目的の正当性など

にかんがみたとき、倫理観にもとる

ような契約書は本来的にあっては

ならないはずです。

 

契約の内容に関しては、

「契約自由の原則」というものがあり、

基本的には当事者がそれでいいと

いえばそれが契約の内容になります。

それに対して、消費者保護の観点から、

経済的にも法的知識としても弱い

立場にある消費者を守るべく、

消費者契約法や特定商取引法といった

いわゆる「消費者法」といった

領域が存在します。

 

このような中で、最近特に問題となって

いるのが事業者が事業者を騙すような

契約の横行です。

事業者であれば、消費者法が適用されない

ため、一旦契約してしまえば、何らの

救済策もありません(一部、下請法や

独禁法といった修正の法律はありますが。)。

その中で

「不相当な違約金を設定する」といった

ものや、

「長期間の拘束をする」といったものが

横行するようになっています。

 

これは不利な契約を見過ごすほうの問題も

ありますが、不相当な契約を突きつける

ほうにも問題があるのではないかと

思います。

それは法的知識やビジネスモデルの問題

ではなく、人間観の問題ではないか

ということです。

 

契約によって相手を搾取しようというので

あれば、好きなだけ自分に都合のいい

契約を考えればいいと思います。

しかし、見る人が見れば、その内容が

自己中心的で、利己的で、欺瞞的な

ものに見えるわけです。

それが契約の文言ではなく、普段の

立ち居振る舞いだったとしたら

そんな人と付き合いたい人は

いなくなるわけです。

 

契約ができるということは、

一つの出会いであり、

ある一点だけであったとしても、

互いの思いが一つになったことを

意味するわけです。

そうであるとするならば、契約の

相手を想い、相手を尊重するのが

人としてあるべき姿なのでは

ないでしょうか。

 

このような想いをもって契約に

あたるのであれば、何も強力な

違約金の条項や無催告解除の条項

など、要らなくなってくるのかも

しれません。

契約書に関するこのようなアプローチは

私(荒木)自身、見たことが

ありませんが、こんな考え方も

あってもいいのではないでしょうか。