こんにちは、荒木でございます。
今日は午後に案件の現地調査が1件あり、
夜は(北海道内で知らない人はいない
であろう)著名な方との少人数での
会食です。
全くの異世界でご活躍の方ですので、
その片鱗だけでも学んできたいと
思います。
さて、国会では全世帯にマスク2枚を
配布するという案が話題になっています。
これに対して世界を見ると、
やれアメリカは13万円の現金支給だ、
やれイタリアは30万円の現金支給だと
その不公平さを批判する声が多く
上がっています。
しかし、これはそれまでの社会保障を
考える必要があります。
例えばアメリカでは医療保険制度が
脆弱であるがため、富裕層でなければ
満足な医療を受けることができない
とされています。
そうするとアメリカで13万円を
もらったところでコロナ感染症の
十分な治療を受けられるかというと
甚だ疑問です。
一方で、日本であれば保険診療が
可能であり応召義務(診療を求められた
医師が患者を診なければいけない義務)
があることから、低所得で
あっても一定水準の医療を
受けることができます。
このような前提を抜きに、どちらの
保障が手厚いのかを語るのには
疑問を持たざるを得ません。
このように、敢えて前提を不明確にしたり
前提をすり替えて議論するような
こと(主張)は裁判の業界では
当然にたくさん存在します。
(だからこそ政治の議論でも前提が
おかしいことに気付きやすくなって
いるのだと思いますが。)
議論は前提から積み上げていかねばならない
ものであり、そのためには論理的思考力が
試されることになります。
ここでよく勘違いされるのは、知識量と
論理的思考力は同じようなものだと
いう点です。
しかし、いくら知識があっても、
論理的思考力を欠いていれば正しい結論に
導くことはできません。
前提となる知識があった上で、
同時に論理的思考力も必要になる
ものです。
この意味でいうと、コロナの問題では、
専門家会議は知識を担う部門であり、
政治家は論理的思考力を担う部門で
あるはずです。
そうすると本来的には専門家会議が
ロックダウンが必要か否か、
といった発表をするのは誤っている
はずであり(論理的思考力がないと
いっているわけではないですが)、
その切り分けは明確にされなければ
ならないということです。
そのことは個人においても妥当します。
例えば、知識ばかり増えて、コロナ
対策のためにあれもやったほうがいい、
これもやったほうがいい、となってくると
およそ日常生活が正常に回るとは
思えません。
正しい意思決定には
知識+論理的思考が必要であるということ
を再度考え直してみることも重要なの
ではないでしょうか。