おはようございます、荒木でございます。
昨日は恒例のお灸で体調を整えた後、
事務所で所内マニュアルの作成など。
周囲が休みの日こそ、第二領域ですね。
さて、最近話題になっているのが
学習院大学の卒業生代表による謝辞です
(謝辞①)。
<学習院大学HP>
https://www.univ.gakushuin.ac.jp/iss/news/20200320-1.html
こちらについては、ネット上で
賛否両論が上がっていますが、
私(荒木)は全く賛同していません。
表現の自由を語るのは構いませんが、
自由であるうえで何を述べるべきか、
というところに思いを致していない
ものとしか考えられないからです。
ともあれ、個人的な感想を置くとして、
この謝辞の前提にあるものを考えて
みたいと思います。
分解してみると以下のような主張と
要約できます。
(1)謝辞が定型化していることへの批判
(2)自分への感謝
(3)自身が優秀な成績であったことで
大学を批判する権利を得ていること
(4)新しいことを批判する者への批判
(5)言論の自由を保護するべき必要性
概していうなれば、閉鎖的な自己愛性と
それを抑制しようとする外部社会への
批判の発信が含まれています。
ここに内に籠ろうとする意識と、
外部へ発散しようとする意識の、
ある意味でのアンビバレントさを
見せている部分があります。
ここにこの言辞の現代性を感じます。
おそらくこの学生は20代前半なので
しょうが、(第何世代というか
忘れましたが)子供のころから
インターネットを使い、物心ついた
ころからスマホに触れてきた世代であり
概して個人主義が強い世代であると
言われています。
このため、外部社会への関心が弱く、
自らの興味関心が共通する小集団を
形成し、外部と「緩く」つながることを
好む世代と考えられています。
その中心に存在するのは「自らの
興味関心」であり、集団に対する帰属
意識でもなければ、全人格的な意味での
「自己」自体でもありません。
そうして考えてみると、この謝辞が
発せられた背景も少し見えてくる
ような気がします。
おそらくこの筆者の「自らの
興味関心」は大学における
勉強や研究に存在したのであり、
それが思想の中核となっている
のでしょう。
そうであるからこそその中核を脅かす
ような大学に対して批判を行うわけ
でしょうし、その中核を強調するあまり
自らの功績の発信に対する抑制への
抵抗感を見せているわけです。
一方で、ネット上にはこの学生に対し、
「学費や生活費を出してくれた親に
感謝するべきではないのか。」という
意見がありました。
これも上記に従って解釈するとすれば、
この学生は全人格的な意味での
ナルシストなのではなく、勉強・研究と
いった分野についての偏愛を持っている
のであり、この分野に直接的な寄与を
しているわけではない親に対しては
感謝という感情を持っていない、
と解することも可能です
(そこまでは断定できませんが。)。
先日、三島由紀夫の映画に関するブログを
書きました。
<【札幌 弁護士コラム】これは弁護士必見、『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』に学ぶ交渉態度とは>
https://feelist-srv.sakura.ne.jp/02_test_site/answerz_test/law_blog_all/post-4945/
ここでの議論の対立のポイントは、
全共闘の主張は自己を相対的に位置づけ
られることへの批判と抵抗であるのに
対し、三島の主張は結局は自己という
ものは物質や時間に対して相対的に
紐づけられざるを得ない、という主張
であったわけです。
この謝辞を書いた学生の主張は「自らの
興味関心」の絶対性を述べる点で
全共闘の主張に近いのかも知れません。
しかし、大きく異なるのはあくまで
それが個人主義の領域を出ず、
外部社会への働きかけがミニマムな
領域に留まっている、あるいは
留めようとしているという点にある
ように考えられます。
以上、とりとめもなく書いてきましたが、
私(荒木)も20代の人との間には
世代間ギャップがあることを意識する
場面が少なからずあります。
世代が個々人の思想全てを支配するわけ
ではありませんが、一定の傾向を理解
しておくことは相互の理解においても、
ビジネスにおける付き合い方においても
非常に重要なことではなかろうかと
思う次第です。