私(荒木)が滝行をやっているという話は
定着しつつありますが、先日で、
いつも行っている滝の他企業の回数が40回を超えました。
いつも山駆け(山登り)をやった後、道場主の方が
祝詞をあげ、それに合わせて一緒に祝詞を上げることから
滝行が始まります。
しかし、前回は、道場主の方から突如
「荒木さん、今日は祝詞をあげて。」
と言われました。
「えっ!?」
それまで、約40回は一緒になって上げてきたのですが、
いざ自分が先達(祝詞を主導する役)でやるということになるというと、
大変なプレッシャーでしばらく固まってしまいました。
簡単に言って超無茶ぶりです(笑)。
「別にどれだけミスしてもいいから、とりあえずやってみて。」
と言われたのですが、先達がやるべき所作というのは
注意して見ていなかったため、
さっぱり何をどうしていいかわかりませんでした。
さらにこの道場主の方に言われたのは、
「出羽三山での修行は何も教えてくれないのが当たり前。
分かろうとわかるまいと、できようとできまいと、
『受けたもう』
と答えるのがしきたり。」ということでした。
これまでの弁護としての業務の経験では、
やり方を説明され、その通りにやってみて、
できていなければダメ出しされるというのが
当たり前のことでした。
やり方もわからずとりあえずやってみる、
やってみろと言われたことに対し、ただ
「受けたもう」
として、一切を受け入れるという発想は斬新でした。
この先達の役割はある程度のミスはありましたが、
結局そこそこに祝詞を上げることができ、
無事に滝行に進むことができました。
しかし、改めて考えてみると、
人から教えられてその通りにやるだけでよい、
ということは社会人になるとむしろ当然のことではなく、
珍しいものであると考えるべきではないでしょうか。
もちろん、社会的な地位や役職にもよるでしょうが、
ある程度自らの判断をすることが必要となる立場で
あるとすれば、何もかも材料与えられ、それに従って行動する、
ということはえてして生産価値として高いものではありません。
外部から与えられたものに対し、素直に受け止め、
その上で方法論を自ら考えて行動することの価値は、
滝行ような状況に限らず極めて重要なことだと考えられます。
「自律型人材」といういい方もされますが、
このような発想は現代においてますます
重要視されているのではないでしょうか。