投稿日:2019年05月01日

【札幌 弁護士コラム】改元にあたっての考察:令和の時代も時代の延長線上

年号が改まり、令和になりました。

今回は、突然の元号の変更というわけではなく、予め予定されていたものであり、経済活動とは本来的に何ら関係のない改変ではあります。

 

とはいえ、これを機にいろいろな思索を巡らせたり、場合によってはビジネスチャンスとして商機を掴んだりするといったことも全く否定されるものではないかと思います。

そもそも、年号というものは、日本の天皇制のもとで独自に培われたものであり、現代の日本国憲法下における元号というものは、形式的なものしかないはずです。

しかしながら、そこに意味を見いだすとすれば、1つ時代の節目として、過去を振り返り、現代を見つめ直し、未来への予測を立てる、といった機会にすることが望ましいように思われます。

 

私は、平成最後の日に、「論語と算盤」という本を読みました。

この本は、江戸時代に生まれ、様々な思想、立場の違いを乗り越え、近代日本経済界の礎を築いた渋沢栄一の講義録をまとめたものです。

この本を読んで1番感じたのは、古くて新しい、といった感覚です。

それというのも、渋沢栄一は、一見矛盾したような考え方である、論語を基本とした商売を成り立たせようとして尽力した人物です。

その前提に立つとすれば、基本的な発想というのは渋沢栄一の生きた時代から約2000年前の考え方を踏襲しているということになります。

そうした渋沢栄一が、実業家として大きな成功を果たした、ということ自体が現代からは約100年前と古く、普遍のものは常に生き続けるということを示しているのではないでしょうか。

この事実を目の当たりにするとすれば、ある意味で形式的な元号の変更により、根本的な意味において大きく時代があるという事はおよそないのではないかと思うわけです。

 

もちろん世の中は、ITだのAIだのといった技術に目を向けている現状はあります。

こういったものがどこまで本質的なものかということについては、別の視点から見直さなければならないはずです。

もちろん、このような新技術が新しい価値観、新しい考え方をもたらすといった可能性は否定できません。

しかし、どのような時代においても技術革新というものは存在したのであり(渋沢栄一が生きた明治初期というのは、欧米の技術がどっと日本に流れ込んできて、大きな技術革新があったことは疑いようがない事実です。)、それが人の生き方、考え方といったレベルにおいてどこまでのインパクトがあるかということについては慎重にならざるを得ないように思います。

 

そういったわけで、私は見ようによっては若干冷めた見方をしているのかもしれませんが、平成の時代からの延長線上に置いて、令和という時代をまずは見つめ直さなければならないのではないかと考えているわけです。

令和の時代も、これまでの延長線通りにまずは尽力し、かつ時代の変化に対応して自らのなすべきことを果たそうと思っておる所存です。