投稿日:2019年04月12日

【札幌 弁護士コラム】説明責任はすべての根本

今日から東京です。

明日は入管業務関係のセミナーに出席するとともに、家族信託関係の新しい動きについての打合せです。

明後日はロータリークラブの地区行事で、多くの方の前でお話させて頂く予定で、なかなかに充実した週末となっています。

 

さて、最近よく思うのは、誰もかれも「説明責任を十分に果たしていない」ということです。

かく言う私が完璧にできているかというと全くそういうわけではないですが、トラブルの原因が説明責任を尽くしていないことにあることは非常に多く見受けられます。

 

例えば、残業代請求の事件の場合に、入社時の賃金の説明と実際に入ってからの賃金の支払いが違っている、といった争点が生じることがあります。

この場合、多くは会社側が法律上の説明責任、すなわち労働契約書、労働条件通知書及び就業規則の整備を十分にしていなかったことが原因と考えられます(裁判であればそのように認定されるはずです。)。

もちろん、作った書類と実際の運用が違っているということは論外ですが、説明を十分に尽くしていないにもかかわらず、説明をしたという前提の事実関係を認定しろというのは困難な話です。

 

そもそも説明責任を尽くす前提として、自分が行っている行動について、自分が説明できるか、という問いを持ち続けることが必要です。

これはできるのが当たり前のように思われるかもしれませんが、厳密な意味ではかなり難しいことです。

例えば、お風呂でどこから体を洗うことにしているか、家を出るときには右足からか左足からか、など普段意識していないことはたくさんあります。

同様に仕事を行う中でも「何となく」やってしまっていることは数多くあるはずです。

その「何となく」の範囲が広がっていくと他者とのコミュニケーションも「何となく」になっていき、仕事の処理も「何となく」になってきます。

そこに間隙が生じるわけです。

 

「何となく」でやってしまっていたことについては、後で説明ができないのは当然ですので、その部分を衝かれた場合には申し開きようがなくなってしまいます。

そのことが時として致命的な問題に至ってしまうわけです。

 

私が業務の中で意識しているのは、このような「何となく」をなくし、少なくとも自分が能動的にやったことについては、趣旨説明、行動に至った経緯、その行動を選択した理由を説明できるようにしておくことです。

このことを意識していれば自然と自分に対するメタ認知が常駐するようになりますし、常に他者からの目線によって律せられる感覚を持つことができます。

 

4月になって新入社員を抱えている方も多いでしょうが、このように説明責任の観点を持ってもらうということも大切なことではないでしょうか。