最近特に思うのですが、人に語ることというのは非常に大きな価値を持つということです。
人に語る前提としては、自らの考える問題において何らかの理論的過程を経なければならないということになります。
人に語りかけるアウトプットが、優れていようがそうでもなかろうが、少なくとも脳内に自らの考えを1周巡らすというプロセスが存在するわけです。
このことは実は非常に大事なことであり、人前で語ることが得意ではない人にとっては大きな歯車を回すのと同様の意味合いを持ちます。
1つにはそのような大きな歯車を柔軟化させ、簡単に回るようにすることによって人前で話すことに対するアレルギーをなくすという効能があります。
しかしそれ以上に大切なことは、脳内で言語を回すことによりそれをことにより、自らの考えを復習、反復、反芻することができるという価値がるというものです。
すなわち話している者にとっては、単に相手に情報を伝えるということのみならず、自らの問題について自ら反省する機会を与えるという意味合いを持ちます。
このような機会を設けることによって、自らの思索が深まり、新たなアイデアを模索することができるようになります。
一方で、受け手の側にとっては、相手の話は必ずしも参考になるものばかりではありません。
しかし、少なくともそういった意見をもらえることで、(肯定的に捉えるか否定的に捉えるかはともかくとして)判断要素が1つ増えることになります。
判断要素が増えるということは、受け手側にとってもより良い意思決定ができるようになる可能性があるということです。
このような語ることの基本的な価値を見直してみることも時には必要ではないでしょうか。