最近聞いた音源の中で、とある社長さんが生前葬を事業としてやりたいとおっしゃっているようなものがありました。
生前葬自体を否定するわけではないですが、考えてみると結構危険な概念なのではないかと思いました。
すなわち、生前葬をやるということが、いかに今後の人生を生きるかということを考えるのを諦めた状態でやるセレモニーだとするのであれば、生前葬をやった時点でそれ以上の成長は図られないことになります。
ここまで書いてきて思い出したのですが、「不死身の特攻兵」という本の題材になった佐々木さんという方は、何度も特攻に出撃したにも関わらず戦地から生還したという方で、亡くなってもいないのに2回も亡くなったものとして、勝手に実家で葬儀を挙げられていたそうです(実際には数年前までご健在でした。)。
この佐々木さんは、実家に帰還した後、特攻で「散華」しなかったことを強くなじられ、大変なご苦労をされたという話が書かれていました。
話を戻すと、仮に上記のものが生前葬の定義として正確であるとするならば、実は人は無意識に生前葬と同様のことを行っているようなことが頻繁にあるのではないかと思います。
例えば、年齢の呪縛から40歳や50歳を過ぎたら新しいことをするのは無理だという考えに至る人も少なくないかもしれません。
これはまさしく、上記に述べたような生前葬の定義と同義のものといえます。
すなわち、まだ新しいことができる可能性があるにもかかわらず、その後は何もできないということを宣言し、挑戦をやめてしてしまうことが、成長や発展の弊害となるケースが多々あるというわけです。
長期的に見てみると、1人1人が、生前葬と同様に、やる前からできないであろうという言葉を当てはめて諦めてしまった行動というものは数え切れないほどにあるようにあるはずです。
若い時代であれば、学歴を得ることができなかった、スキルを身に付けることができなかった、人間関係を構築することができなかった、そういったことで絶望する世代も多いように見受けられます。
しかし、これらはいずれも必ずしもその人の成長にとってクリティカルに問題となるようなものとはいえません。
少なくとも後天的にカバーできる余地の大きいものであるといえます。
それにもかかわらず、ないものをカバーする手法を一切取らず、ただただ絶望するばかりであり諦めてしまうのは、まさしく自分が自分に対して生前葬を行っていることと同様になるのではないでしょうか。
こうしたことが頻繁に行われるとするのであれば、未来に対する希望や期待感といったものは相当程度に失われてしまうことになります。
まだまだ生きながらえている(生理的な意味ではなく、これから将来に希望が持てるといった意味合いにおいて)時間があるにもかかわらず、なすべきことをなさず、ただただ現状を否定的に受け入れようとする態度はあってはなりません。
これは単に若い世代に対して当てはまるものではなく、人生100年時代と言われつつある今日においては、60代、70代、それ以降の世代においても当てはまるのではないでしょうか。
いつまでたってもチャレンジということを思い続けることにより、生前葬ではなく現世におけるチャレンジを行うことで、未来を変えられる部分というのは非常に大きな割合を占めているはずです