今日は、明日の愛知での滝行に先立って現地入りしています。
何とか台風がそれて無事に来られたことにまずは感謝です。
今日は愛知入りに先立ち、道内で滝行の先生にお会いしてお話を伺いました。
それというのも再来週、東京でのセミナーに講師として呼ばれており、滝行の話をせよと仰せつかったために取材をしてまいったという次第です。
先生が滝行をなぜ始め、なぜ今まで続けてこられたのかなど、経歴のお話も伺いましたが、話が広がり、滝行から何を得たか、何を学んだか、というお話を頂きました。
そこで最も印象に残ったのが、
「なぜ」
「どうして」
という言葉を使わない
ということでした。
「なぜ」「どうして」という言葉は、通常は単に理由を問うものですが、会話の中では時として「なぜあなたの言うことを聞かなければならないのか。」、「どうしてあなたの意見が正しいといえるのか。」といったニュアンスに捉えられることがあります。
これによって相手との関係性が既存され、相手から素直な意見が聞けなくなってしまいます。
また、「なぜ」「どうして」という言葉が相手に向かって発せられたものであるとしても、それは同時に自らに対しても発せられるものになります。
そうすると自分自身が相手に対して疑問を持っている意識を持つことになり、素直に相手の意見を受け入れられなくなってしまいます。
そもそも、究極的に「なぜ」「どうして」を繰り返していると、答えのないところに必ずぶつかることになります。
そうすると結論的には「何かに導かれている」といったような答えにならざるを得ない場面に行きついてしまいます。
それであれば「なぜ」「どうして」という細かい問いを投げかけるよりも、素直に意見を受け入れられる広い心を涵養したほうが有益であるということです。
もちろん、科学の世界では「なぜ」「どうして」を探求することは必要ではありますが、ビジネスや人生全体を見渡したときに、細かい疑問をさしはさむことにどれだけの意味があるか考えたほうがよい場面も往々にしてあるのではないでしょうか。