今日は鮒谷周史さんの年間プログラムで東京に来ております。
今日も多くの学びを得てまいりました。
さて、今日の年間プログラムの中でも一部共通する話がありましたが、日本における「美徳」のようなものを疑ってかかる必要がある瞬間があるのではないか、というお話です。
もちろん、日本の文化や伝統的な観念まで否定するつもりはさらさらないので、その点はご理解いただきたく、ここでのお話というのはあくまでも合目的的に考えた場合の話であるということでご理解ください。
よく「努力することは美しい」とか「努力は報われる」ということが述べられます。
そのこと自体は否定されるべきものではなく、かつ大きな結果を得るために努力が不可欠なことは否定できません。
しかしながら、「何のために努力をしているのか」ということを抜きにしては努力が意味を持つことはありません。
よく、早朝や夜のカフェで参考書を広げて何やら一生懸命に勉強されている方を見かけることがあります。
かく言う私も司法試験を受験しているような時代にはよくカフェで勉強していたものです。
ここで参考書を広げて勉強していることが、自分の目標や目的にどれほど結びつくものか、ということにどれほどの意識が向いているのか、という点が問題です。
もちろん、中には目指すべきものが明確にあり、目標からの逆算としてしっかりやっていらっしゃる方がいることも否定はできません。
しかし、「この資格をとっておいたほうがいいんじゃないか」とか「この学校にいっておいたほうが有利に働くんじゃないか」とか「会社から言われているから仕方ない」とか、そのような発想で「努力」と思われるようなことをやっているのは非常に危ないのではないかと思うのです。
それというのもこのような考え方では、自己の考える価値と努力とが結びついている状態ではなく、努力することが自己に対する価値になっていない場合があるからです。
例えば資格試験の勉強をしている場合にあっては、試験に不合格となったら努力は(表面的な意味で)価値を持たないことはもちろん、合格しても努力に見合った価値があるとは断定できません。
このような結果を生じさせるのは一つには目標設定の問題があります。
目標が明確に定まっていなければ、どの方向に向かって努力をしていいかが決まらないからです。
これはゴールの位置が決まっていないのに100m走をやっているのとおなじようなことです。
それにもかかわらず、「努力していること自体が素晴らしい」といった観念にとらわれ、方向性が定まらない努力ばかりを重ねるのであれば単なる「徒労」に終わってしまうことは明白です。
この意味で努力と言われるような行動を取るのであれば、その行動が自分の目標においてどこに位置づけられるのかを常に意識する必要があるといえます。
この位置づけというのは、単に「資格を取得するためにこの単元の学習をすることが必要である」というものではなく、自己の人生、少なくとも中長期的な生活目標においてどれほどの意味があるのか、という次元で考えなければなりません。
努力を無駄遣いしないためには、実は努力を始める前の下ごしらえが重要になるのではないでしょうか。