投稿日:2017年11月21日

【札幌 弁護士コラム】活かすか、活かさないかが人生の分かれ道

一昨日は毎月恒例の滝行の日でした。

今季初の積雪の中での滝行で、自然と気合が入りました。

しかしながら、滝に入ったあとは不思議とそれまで以上の爽快感を得ることができるのでやめられなくなってしまうものです。

 

よく私が滝行をやっていることを知った方から「何で滝行なんかやってるの?」ということを訊かれたりします。

これを訊かれると私も実は言葉に窮する部分があり、上記のように「爽快感を得るため」というのは極めて表面的な説明になってしまい、一方で「道を極めるため」とか「悟りを開くため」というのは私のようなレベルでおこがましいと思われるためです。

何のためか、という疑問を解明する意味でも滝行を「やってみている」というのが正しい表現なのかもしれません。

 

ともあれ、滝行は即物的に何かを得られるとか、実際的に何かの役に立つといったようなことはありません。

かといって役に立っていないという話にはなりません。

 

世の中には「無用の用」という言葉があります。

これは(私なりの解釈では)、「一見無用なものでも、使う人の使い方によっては役に立つものである」という意味で、役に立たないように見えるものを切り捨てるべきではない、という教えを説いているものといえます。

 

一方で、江戸時代に剣術の師範を務めていた柳生家の家訓として次のようなものがあります。

 

小才は、縁に会って縁に気づかず。

中才は、縁に気づいて縁を生かさず。

大才は、袖振り合う縁をも生かす。

 

これは、才能のない人はご縁に気づきもしない、それなりに才能のある人はご縁には気付くがそれを活かそうとしない、とても才能のある人は小さいご縁でも有効に活かす、ということを表しています。

 

「無用の用」と家訓に共通することは、物事に対する捉え方を変えて、小さいことや無意味と思われるようなことでも有効に活用しようと思えば、活用の途は見つかるということです。

滝行もこの考え方に沿うとすると、知らない方とご縁を持たせて頂いたり、健康や幸福について考えるきっかけを頂いたり、人間一人の力では何ともならないことを学ばせて頂いたりと、様々な効用が見えてきます。

 

そのように一見、無意味と感じられることや、意味が理解できないことにも目を向けることで新たな発見がもたらされるのではないでしょうか。