少し前になってしまいますが、先日の木曜日はスモールサンゼミの日でした。
今回は仙台から講師をお招きし、接遇の方法についてお話を聞きました。
その講義で強調されていたのが「非言語の部分に気を遣う」ということでした。
それというのも言語化されたものが正しいとは限らず、それ以上に人は非言語の部分で判断を行っているからだというのです。
そこで、訴訟では言語的なものと非言語的なものとがどのように切り分けられているのか、ということを考えました。
まず訴訟の入口と出口を考えてみると、入口は原告から提出される訴状によって始まり、出口は裁判官が作成する判決書によって終結します。
すなわち、入口と出口はいずれも言語化されたもので作られているということがわかります。
一方でその中間で非言語的なものが出てくるのか、という点が次に疑問になります。
原告も被告も基本的には書面で主張を行い、証拠提出するが、その中では証人尋問等も行われます。
もちろん、証人尋問を行う場合には生身の人間である証人が直接裁判所に出向き、裁判官の前で話すのですから、裁判官もその発言内容だけではなく、その身なり、発言態度、表情、癖、間など、非言語的な部分も知ることができます。
しかし、証人尋問の記録がこのような非言語的な部分まで対応しているのかというと全くそのようなことはありません。
いかに非言語的な部分があったとしても、記録としては証人の発言内容を一言一句書き起こした調書が出来上がるだけです。
しかも、裁判官は転勤が多く、証人尋問の後に転勤になるような場合もないではありません。
そのような場合には完全に非言語的な部分が排除されてしまうことになります。
このような仕組みになっている以上、当事者が体験した非言語的な部分を含む事実と判決の基礎となる言語的なものだけで作り上げられた事実とは異なっていて当然です。
このようなことを一般に説明せずに裁判を進めている以上、一般人には判決がなぜそのようになったのかは理解しがたいことになります。
一般にわかる、一般に理解を得られる裁判を行うのであれば、非言語的な部分までをくみ取れる仕組みを作るよりないように思います。