投稿日:2017年07月06日

【札幌 弁護士コラム】先達はあらまほしいのかどうかという考察

今日は1日事務所で内職をした後、スモールサンゼミに参加してきました。

東京で斬新な左官業をやられている社長さんのお話を聞き、従業員の育て方に悩めるレベルになれたらいいなー、と思って聞いていました。

こんな事務所でもいいから働いてくれるという方、大歓迎です。笑

 

さて、吉田兼好の徒然草の一節に「先達はあらまほしき事なり。」というものがあります。

これは神社の参り方という簡単なことについても指導者が必要ではないか、ということを述べた随筆です。

 

一方の格言では、「我以外皆師なり。」という言葉があります(吉川英治が述べた言葉だとか。)。

これは自分以外の人間には必ず学ぶべきところがあるという意味の格言です。

 

この2つは見ようによっては矛盾しているようにも思われます。

すなわち、前者はいい指導者を見つけるべきだ、と述べているのに対し、後者はどんな人でも指導者になるのだ、ということを述べているように思われるのです。

 

それ以外の解釈も成り立ちうるとは思いますが、あえてこの解釈に立った場合、どのように考えるべきなのでしょうか。

 

私が1つ思いついたのは、時間的な違いです。

すなわち、人が成長するためにまず必要なのは、いい指導者に教えを受けて、軸というべき考え方を定着させる必要があるということです。

この意味においては、予めいい指導者の教えをコピーし、その教えに従う訓練をすることが必要であると思われます。

 

しかしながら、外部環境の変化、他者との相対的な関係性の問題などからすると、必ずしも1つの考え方にすがるべきでないケースも発生し得ます。

このような段に及んで、1つの考え方にすがるのはナンセンスであり、多様な価値観を受け入れる必要があります。

この意味で多くの人の考え方を学び、吸収することが必要となります。

 

しかし、この段で必要なのは、スクリーニング能力です。

スクリーニング能力とはいい意見と悪い意見とを判別し、自らの目指す方向性に必要なものを選りすぐって受け入れる能力のことです。

 

このスクリーニング能力があってこそ、いい方向に向くべき意見を取り入れられるのでしょうし、そのうえで多様な考え方を取り入れることでいい方向の中にも厚みが生じるのではないかと思われます。