昨日は珍しく(?)すすきのに一人で飲みに出かけました。
これは単に遊びに行っているということではなく、新たな境地や人間関係の開拓に必要であるということなので誤解をされないよう。
実際に、普段の異業種交流会では知り合わないようなお医者様や大手企業のサラリーマンのかたと親交を持たせて頂くことができました。
さて、昨日、「職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史」という本を読んだのですが、我が身を省みてかなり衝撃的な内容でした。
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『職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史』
この本は明治以降の弁護士の歴史をまとめたもので、弁護士以外の方にとっては役に立つかどうかわかりませんが、とりあえず弁護士に対するイメージはかなり変わることは間違いありません。
この本の内容には異論もあるようですが、基本的な流れとして明治初期には弁護士(代言人)の社会的地位は低く裁判官や検察官には逆らえないような存在でした。
その後明治後期から大正時代にかけて、民主主義の発展とともに弁護士の地位が向上してきたものの、日中戦争、太平洋戦争に至る過程で弁護士としての結社の解散が迫られるなど、また弁護士の地位が没落する時代がありました。
そして戦後、弁護士が主体的に弁護士法の立法に携わることにより、他の士業に類を見ない独立的な地位を獲得し、法曹一元化を実現したという歴史があります。
そのようなわけで、私(荒木)が弁護士業を営んでいるのも、先人たちの大変な努力のたまものであると考えると頭が下がる思いです。
そのような歴史の中で、現代の弁護士業界が抱えるものと同様の問題や課題が見られた時期がいくつもあったことに驚きました。
まず、司法修習生の給費制の問題。
戦前までの制度では弁護士と裁判官、検察官との養成課程が異なっており、養成課程での地位や待遇も大きく異なっていました。
そのような中で、弁護士にも一定期間の研修を受けさせていた時代がありましたが、その研修期間は無給で過ごさなければならないという状況がありました。
このような話は、つい最近もあり、司法修習生の給費制が廃止され、貸与制になっていた時代がありました。
司法修習生という身分は同じであるため、この間の待遇は同様とされていましたが、裁判官、検察官に任官、任検すれば国から貸与を受けていた金銭を返還しなくてよいという特例が設けられていました。
このことは実質的に「弁護士になる者が研修を受けるときは無給、裁判官や検察官になる者が研修を受けるときは有給」という制度と変わらないことになります。
また、陪審制が導入された時期もありました。
一部の弁護士からの強い要望により昭和3年には陪審制が導入され、いくつかの事件が陪審制で行われましたが、裁判所からの批判はもちろん、弁護士の多くもこの制度に反対していたことからほとんど使われなくなり、昭和18年には制度が停止されました。
一方、平成11年以降の司法制度改革において司法制度の民主化が叫ばれるようになり、平成21年5月から裁判員制度が実施されるようになりました。
陪審制と裁判員制度は量刑判断を裁判官が行うか、市民が行うかという違いがありますが、事件ごとに無作為に選ばれた市民が有罪無罪の判断を行う点においては合致しています。
更に、同じく司法制度改革により弁護士の増員が図られ、新司法試験制度が導入された60期以降は弁護士数が一気に多くなっており、「食えない弁護士」が急増していることは有名な話になっています。
これと同様のことは大正12年に特例制度によって弁護士が急増したときにも起こっています。
当時の弁護士の生活実態を調査したレポートでは、赤字の弁護士や生活を維持できるだけの売上げがない弁護士が多数存在したことが挙げられています。
このように日本の弁護士の歴史についてもまさに「歴史は繰り返す」といった状況が展開されています。
但し、好意的な目線で見るのであれば、給費制についても以前のものについては法曹一元化が実現していない時代のものであるのに対し、現代のものでは法曹一元化が実現した中で行われたものとして一歩は前進した事象のものであるし、裁判員制度についても有罪無罪の判断基準や量刑相場に一石を投じるような事例も出てきているし、弁護士の貧困問題についても現代ではインハウスローヤーの途ができつつあるという意味では救われる部分も出てきています。
これらを概していえば、ヘーゲルのいう「螺旋的発展」(物事の進歩・発展の様相は、あたかも螺旋階段を登るがごとく、横から見れば右肩上がりに上昇していくが、上から見れば円を描いて元に戻ってくるように見えるということ)を行っているということがいえるのではないでしょうか。
これから弁護士業界がどこに向かうのかは定かではありませんが、予想の一手段として過去に起こった出来事をおさらいすることも有用なのかもしれません。