(本記事は平成29年4月5日分の未投稿記事です。)
弁護士という職業は見る人によって様々な評価を受けます。
高尚で立派な職業だといわれることもあれば、市民の見方だといわれることもあれば、高い料金をぼったくる商売だといわれることすらあります。
そんな弁護士像は古い絵画で風刺されていたりもします。
中でも弁護士に対して批判的な見方をする作品も多く存在します。
例えばルオーの「弁護士は空ぞらしい言葉で彼に悪意なしと主張する」やドーミエの「話好きの三人の弁護士」などは弁護士の職業倫理を批判する作品として有名です。
<ルオー「弁護士は空ぞらしい言葉で彼に悪意なしと主張する」>
<ドーミエ「話好きの三人の弁護士」>
https://blogs.yahoo.co.jp/haru21012000/49174149.html
これらの作品で描かれている弁護士像というのは、真実や依頼者の心情とかけ離れたことを述べ、主張するということを風刺しています。
このことは(見方によれば)現代の弁護士においても通底する部分があります。
弁護士側の肩を持つとすれば、弁護士には忠実義務(依頼者のために尽くす義務)と真実義務(嘘を述べてはならないという義務)があり常にその間で舵取りを迫られています。
このため、明らかに犯罪を犯している依頼者(被告人)が無罪を主張していたときに「被告人は有罪である」という弁論をしてはならないし、明らかに偽造した証拠となる契約書を依頼者から受け取ってそれをそのまま証拠として提出してはならない、といったような両極に倫理的な規制がかけられています。
このため少しでもバランスを失すると倫理的な非難を浴びるという立ち位置に置かれています。
ともあれ、一面において、このように紛争の坩堝の中では弁護士といえども行動に制限が生じるのであり、それによって一定程度は依頼者にも不満は残り、一定程度は客観的な真実に反することになります。
そのようなことを回避するためには紛争を予防するよりありません。
「弁護士は喧嘩するためにいる」という弁護士のイメージを払拭しない限り、容易なことではありませんが、予防法務に弁護士が活用されることが当たり前となっていればルオーやドーミエの弁護士に対する見方も変わっていたのではないでしょうか。