(本記事は平成29年2月27日分の未投稿記事です。)
「技術信仰」という言葉があります。
これは主に「技術があればことがうまく運ぶ」という意味で使われている言葉です。
これについては様々な角度からの批判があるところですが、ここでは3つの点から問題を指摘してみたいと思います。
1 陳腐化の問題
技術はどんな分野であれ、日進月歩していくものです。
特に現代社会においてはそのスピードは以前に比べて格段に早くなっているということが言われています。
そうするとどのようなことが起こるかというと、技術が陳腐化していくスピードも早まっているということです。
陳腐化していくことで技術は価値を失っていくのですから、開発に携わる人は常に陳腐化を上回るスピードでの開発が求められることになってしまいます。
2 外部環境の影響
技術が求められることは外発的な要因によることが多いため、技術の価値は外的な要因が大きいことになります。
例えば日本は自動車産業で貿易黒字を生み出すことで成長してきた部分が大きいですが、円高や関税の問題が発生してしまえば、いかにトヨタやホンダの技術が優れていようとも海外で車を売ることが容易ではなくなってしまいます。
このように外部環境の変化によって技術が突然に価値を失ってしまう危険性をはらんでいるということです。
3 高度化の要否
技術ばかりに目を向けていると、「ためにする議論」のように「何のために技術が必要か」というところを超えて技術の進歩が必要である、というところが出発点になってしまっている部分があるように思われます。
そもそも何のために技術が必要かという議論が尽くされていなければ、技術が進歩してもそれが何の価値も提供しないということが起こり得てしまいます。
以上のようなことは弁護士としての知識やスキルについても当てはまることだと思います。
法律や判例を良く知っていることは望ましいことではありますが、弁護士は本来的にその研究者ではないはずなのであり何をミッションとして仕事をやっているのかを置き去りにしてはなりません。
弁護士会でたくさんの研修があり、技術的な部分については勉強になると思いますが、弁護士としての本質的なところを突いた研修があるか、というと私は皆無ではないかと思っています。
いくら技術を重視する仕事をしているとしても、技術信仰によって本質的な部分を忘れないように心がける姿勢は必要ではないでしょうか。